2002年06月03日(月)晴れ

今週の土曜日に私が主催する星と森国際短歌大会がフォーシーズンズホテルで開催。その準備で忙しい週になりそう。短歌を募集して、優秀歌を歌うんです。今年は日本語の短歌が約600首、英語の短歌が120首集まりました。優勝歌は当日まで発表できませんが、素晴らしい歌ですよ。短歌や詩歌は、練習である程度は上手になりますが、やはり先天的なものが大きい気がします。私はこの5年間ほど、月に一度、南青山短歌会という歌仲間で勉強を続けてますが、あまりうまくなりません。文章も決して上手ではありませんが、一応文章では食べているのですから、こちらは努力すればそれなりに上達するのでしょうが、短歌は先天性が大事かも。歌心がある人がいるんですよね。大橋巨泉は大学生の時に短歌をやっていたのですが、寺山修二というすごい男が現れ、あいつには絶対にかなわない、と思って、短歌をやめた、というようなことをベストセラーの中で書いていました。たしかにあの人の場合はやめてよかったでしょうね。でもそれだけ寺
山修二は凄かったんでしょうね。ただ、いつもは上手にかけなくても、大きく心が動く時には、誰でも短歌や詩歌はでてくるものでもあるのです。例えば、遺書なんかは、いいものがみんな書けるはず。オリンピックで三位に入った円谷選手の遺書を読んだことがあるけど、凄い文でした。これまでの生きている間に食べたものを、感謝を込めてたんたんと、語るんです。おかあさま、あのときの、、、大変おいしゅうございました、おとうさま、あのときの、、、大変おいしゅうございました、、と、色々な人に、ともに食べたものをあげて、生前の感謝にしていく遺書なんですが、あんな凄い文はありません。三島由紀夫にも、川端康成にも書けない文なんです。短歌や詩歌の凄さは、そういうところにありますよね。力ある言葉って言うのが、ほんとうにあるんです。観念の言葉かリアリティの言葉かは、実際に歌にして歌うと、よくわかります。言葉の発生は、歌とともにあったんでしょうね。