2002年05月13日(月)曇り

きょうはファチマの聖日。ヤシンタ他の子供達が、マリアの導きにあった日です。有名なファティマの予言はこの子供達が預かったわけ。まだ全部は公表されていない予言ですが、将来の地球について書かれているとか。早く心を入れ替えないと、救いの玉という、大きな火球のようなものが地上に落ち、救われる人はすくない、といった凄い内容らしい。ひふみ神示でも、火の洗礼が注がれる、江戸はどうしても火の海ぞ、という内容があります。そんなのが落ちたら、江戸どころか、ほとんどがダメになってしまうでしょうに。実際、昔は山が逃げるところだったが、今度は山に逃げてもダメ、逃げるところはないぞ、、、とひふみでは、書かれている。旧約聖書の予言も、イエスの予言も、すべて同じ内容。いずれこの世が始まって最大の天変地異と、災難が襲い掛かる、というもの。一体、そんな恐ろしい事態がいつくるのか、ほんとに来るのか心配ですが、何せ聖書にも書かれているという信憑性もあって、昔から、まさに今がそのとき、とばかり、多くの人が、かえって自分の人生を踏み誤ってきた面もあるのです。予言を信じると、今の営みに対する責任感が希薄となり、夢の中に生きてるような無責任さが生じてくるのは当然。予言の問題点は今という時間を反故にし、人を観念の中に引き込む怖さがあるわけですね。しかし、現実に直面することを避け、観念の世界に生きてる人は別に予言を信じてるひとだけでなく、非常に多いですね。長い長い期間の義務、例えば仕事などがすべて、という人は、実は現実に生きてるというよりも、観念の中に生きている部分が多いのかも。私は個人営業的な生き方なので、どうしてもその部分にうそがつけず、つまらないことには正直にすぐにあきてしまい、いつも新しいことをはじめたくなります。よしあしですが、予言の魅力に今の自分をゆずってしまうような人は、やはり何かを決断して、新しいことや新しい生き方をしたほうがいいのです。何かを決断するとは、今やっている基本的なものを捨てることを意味します。決断とは、何かを捨てることなのです。捨てて新しい生き方をすると、必ず力が湧いてきます。それは未来を自分がこしらえることになっていきますので、予言や観念から人を自由に、ある程度はしてくれるわけですね。