2002年01月01日(火)晴れ

あけましておめでとうございます。
昨晩、新年用のためにお米を精米したのですが、時間がかかって年越しになってしまいました。年も明けて、0時半ごろでしょうか、精米機の部屋から外に出て見ると、きれいな月の近くに木星が輝いていましたが、よく見てびっくり。なんと、美しい後輪が月と木星を大きく取り巻いていました。やや曇りのためなのでしょうか。まったく360度の大きな月の後輪が月と木星をとりまいていて、それは美しく、また神秘的でした。月と木星の合の晩に、お米の精米ですから、見事に一致した感じ。月と木星の合は、大それた幸運ではなく、日常的な、たとえば穀物のもたらす幸運的な感じが私にはしていたので、嬉しかったです。穀物は神様、という信仰はもっとも高度な信仰の形のような気がします。食べ物のご恩というのは、命を与えられていることに直結しますので、いくらロジックを労しても、食べ物にはかなわないのです。命のやりとりでこの世界は終わりない形で続いていきます。その元が米や穀物です。穀物に神を見出せない宗教には、わたしは疑問視してしまいます。生物はすべて、植物の化身なのです。動物は植物を食して成長します。動物を食する動物も、化身した植物を食べていることには違いはありません。命のありようを知りたければ、まず植物にその元を探らなければわからないでしょう。私達は、すべて、植物の化身として、命を受け、保っているのですから。種には、その元の元の命の形があり、それは神そのものでもあるのです。植物の種に何の感慨もない人は、宗教家になってはいけません。どうせ、くだらないことを教えることになるに決まっているのですから。しかし、その種ですが、ひどいんですよね。シード会社が一回の交配でダメになるように、遺伝子を変えて作ってるんでしょうね。たとえば、古い種をつかって、農業をしても、いい作物ができなかったりするんです。私も、昨年はほうれん草と、株で、そのことを実感しました。毎年買わなければダメになるようにしているのだと思います。こういうことは、本当に法律で規制してもらいたいです。いざ、食料危機にでもなったら、大変な問題なんですよね。シード会社に、私達の命が握られるかもしれない危険があるのですから。種の怖さを、いずれ人類は人事ではなくて、直面することになるかもしれませんね。しかし、色々な改良を重ねに重ねた末に、まいてみると、古代米が育ったと言う話もあるんです。作為の末に先祖がえりを起こすなんて、種は神秘そのもの。昨晩の月の後輪をみて、2002年のキーワードは種、穀物、ひいては食物であることを直感しました。