2001年12月04日(火)雨

12月1日に皇太子様、雅子様に内親王がお生まれになりました。ずっと暗い世相が続いていたこともあり、喜びもひとしおです。雅子さまはご高齢だったので、本当に安心されたのではないでしょうか。周囲の人たちもみんな、心から喜んでいた気がしました。天皇制とは何なのかと、よく疑問にする人がいます。私も確かなことはわからないのですが、このことだけは言えると思います。毎日毎日、数千年にわたって、人々や国の平和や幸せを願い続けてきた家。世の中広いといえども、ただそのことだけを祈ってきた家はそうは多くないと思います。普通の国王と違う点でもありますね。ローマ法王もやはり、人々の幸せを願う立場ですし、またそうされていると思います。ただ宗教と言う立場上、組織の拡大というテーマと、自然に発生する権力機構があるところが今の天皇とは違います。日本の天皇は、自分がそうしたいから、といって今の立場にたっているのではなく、国民総意によってその存在が認められているにすぎません。だからこそ大変貴重なことなのです。私たちの幸せを毎日祈るその存在のありがたさを、多くの人が肌身に感じることで、天皇家を支えているといえるでしょう。私心のない天皇の存在は、実際におそば近くに行くとか、または純粋な関心を寄せることで感じられたりします。私たちは、誰もが善意や良心の子供達なのです。私心のない善意と良心の前で、私達も素の子供の心に戻れる、そんな感じが私の天皇観です。その昔、ある村ではみんなが働くのに、ひとりの女性は丘で毎日歌ばかり歌っていました。村人の一人が、何でみんなは働いているのにあいつは歌ばかりでなぜ働かないのか、とクレームをつけてその女性を追い出してしまったのです。するとその村では、以降作物はできなくなるし、ドロボーは多くなるし、争いは絶えない、という状態になってはじめて気づいたのです。あの人を追い出してしまったからだ。村人は、女性の歌に励まされ、力を得、慰められ、勇気を得ていたのでした。このように私達には、どこかに命の源があるのです。その命の源は数字や損得や、小さな善悪では捉えられない、場合によっては姿すら見えないものであったりします。それ自体は何の価値観も持たず、主張もせず、ただ存在するだけなのに、私達の命と響きあう、そういうものがあるのです。小利口な人の多くが運がわるいのは、大体は、歌をうたう女性を追い出した村人のようなことをしてしまうためなのです。小さな知から離れ、小利口な人からは、バカだと言われる選択をしていくだけでも、ずい分と面白い人生になっていくものです。昔、金利がいい銀行のcmで、利子をもじって、おりこうな利子さん、といったのがあったけど、危ない危ない、と私は思いました。そしたら、本当にすぐにバブルが崩壊し、金利がいい、頭のいい利子さんが預けるはずのその銀行はその後破綻しました。いいですか、みなさんも利子さんで生きていってはまずいですよ。また結婚するなら、利夫さんもまずいと思いますよ。

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