いわく言い難い世界とつながる生き方

意識からしかエネルギーが来ない、、、というのは、これまでに何度となく語ってきました。また、私たちは肉体を持つものの、本当の自分は意識であるとも語ってきました。それはその通りですが、では、肉体とは何か、改めてとらえることも重要だと思います。

意識論から言うと、肉体の重要性は小さくなりがちな印象ですが、それは間違いです。肉体ほど重要なものはないのです。言っていることにつじつまが合わないように感じられるかもしれませんが、肉体は重要なのです。

肉体はエネルギーをあっちの世界から得て存在しているので、あっちの世界からのエネルギーが枯渇したら肉体は劣化しやがて滅びます。この流れ自体は普遍であり、肉体に限らず、すべての物質も同様です。

物質や肉体はあっちの無の世界からのエネルギーを得て存在しているということは、つながっているわけです。つながりの糸は何かというとそれは意識ですが、もっと平たく言えば、五感なのです。

人間には視覚、臭覚、触覚、味覚、聴覚の五感があります。犬になると聴覚が人間の何倍、臭覚にいたっては何千倍も利くようになります。植物の触覚はすごいらしいです。わずかな風の動き、流れを正確に捉え、光や音にもものすごいレベルで反応するらいしいのです。

このように人間に限らず、動物植物には、なんらかの五感に相当するものがあり、これを通して、生命はあっちの世界とつながっているとも言えます。

話しを人間の五感に戻しますが、私たちがご飯を食べる時、本当はあっちの世界とのつながりの可能性を秘めているのです。私たちが音を聞くとき、あっちの世界とのつながりの可能性を秘めているのです。触る時も臭覚を働かせるときも同様です。

では、すべての場合で人は五感を通してあっちとつながっているのか、、、となると、残念なことにそれは違います。つながる場合もあるし、つながらない場合もあるのです。

文化の重要性はそこにあります。繊細な文化は香りであれ視覚であれ聴覚であれ味覚であれ、すべてあっちの世界とのつながりを予感させるものです。

四季を愛でるとは、視覚で四季を感じ、味覚で四季を味わい、臭覚で四季の深さを知り、触覚で四季と戯れ、聴覚で四季と一体となる、そうした遊びです。

五感を通じてどこまでつながるかは、人それぞれです。浅い味覚にしか至らない人もいれば、深い味覚を察知する人もいる。味覚を通して、無の世界への糸をたぐる人も出てくる。すべての文化はそうやって発展してきたのです。

文化の大元にあるものは、あっちの世界の無以外ありません。こちらの世界の都合で解釈できる内容とは違うのです。

五感を通して、私たちはそうした無の世界とのつながりを体験できるようにできている。無こそが実体であり事実そのものなので、あるものを無いとは言えない。その絶対感覚が、研ぎ澄まされた五感にはあるのです。そのように人間はできている。動植物もおそらくそのようにできている。

つながるものが幽界であれば、いずれ私たちはエネルギーを失い、最終的には狂気に陥ることになる。虚構を事実と思えば、人も虚構に陥るためです。五感が無につながれば、無は実在なのでそういうことは起こらない。ただ高度なエネルギーが入ってくる。

なので、食べる時は、ゆっくりと、味わい、何かを感じ取るようにして食べる、、、それが文化なのです。見る時は、ゆっくりと見、表層にあるものにだまされずにその奥を見つめる、、、音を聞くときは、音がどのように出ているかを深いところで聞き取る、、音を見るという表現や、香りを聞くという表現がなぜあるのかも、奥にある無を見つめる深い文化であるからでしょう。

なので、無とつながる五感となれば、食は少なくてもエネルギーワークとなり、一瞬のしじまにこだます音ですべてを理解させ、香りを聞けば個の意識は飛んで自由になる。

無からしかエネルギーは来ないので、五感で味わうさらに奥の世界を探訪すれば、私たちの生き方はエネルギーワークとなっていくのです。
むさぼれば死が近づき、食の奥を味わえば、たった一口の料理が永遠の命を約束もしてくれるのです。文化の偉大さがここにあります。そしてつながったものは、言葉にすることはできず、いわく言い難いものとなってその人の宝になります。

説明できるものに真実はありません。知が彼岸へ行き着くことはないのです。

文化の秋の到来です。五感を通じて今年の秋、あなたは何に出会うでしょうか。いわく言い難い体験を共有できる人がいれば、それは人生最高の幸福ともなるでしょう。

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