米 神道 弥生以降

先日、糖尿病の治療法が、日本と世界とでは異なるという話しを聞いた。糖尿病に限らず、癌の治療についても日本は世界と異なるのですが、その内容はやはり驚きでした。

まず、糖尿病といえば血糖値が問題になります。なかなか下がらない血糖値のために、厳しい食事制限を行い、さらに悪い場合はインシュリンを打つ、、その結果、腎臓に問題が出て人工透析という流れなど、糖尿病の行く末にはどうも暗さが付きまといます。

厳しい食事制限の中身を見ると、炭水化物、脂質、タンパク質のすべてを抑える内容。しかし海外ではそうではないらしい。制限するのおおむね炭水化物だけで、脂質とタンパク質に関してはかなりおおらか。

糖尿病患者がやる気を失うのは、厳しい食事制限が大きな理由のひとつになっている気がしますので、脂質とタンパク質が基本的にオーケーならば、ご飯はともかくおかずは自由に食べられることになり、ほとんど不自由を感じないで済むのです。これが海外における糖尿病患者の食事制限の内容です。

なんで日本と世界とそんなに違うのか不思議でなりませんが、実際に食後の血糖値を測ってみると、炭水化物に反応する面が大きく、脂質とタンパク質には、それほど血糖値は反応しない。なので、世界では食事制限に脂質とタンパク質を重視しないわけです。

となると日本の糖尿病患者はかなり不要とも思える制限を強いられていることになる。医者ではないので断定的なことは言えませんが、ダブルスタンダードがあるというのが信じられない気持ちです。

いずれ、時代がこうしたことにも証明してくれる時が訪れるでしょうが、それまで不要な制限を強いられ、その上血糖値が下げらずに、ついには人工透析に至るなどする人にとってみれば、命がけの思いです。

癌治療にしろ、糖尿病治療にしろ、なんでダブルスタンダードがあるのか、きちんと説明してもらいたいものです。

さて、血糖値を上げるのが、炭水化物であることは、今でははっきりしています。脂質とタンパク質とはあきらかな違いがあります。問題は炭水化物の取りすぎ。

炭水化物の取りすぎ、すなわち糖質の取りすぎが色々な病気や問題を引き起こしている点については改めて考える必要があると思います。

それは病気や健康に限ったことではないのです。炭水化物の代表格である米について考えてみたいと思います。

米は縄文から弥生に移る過程で広く伝播しました。それによって人々は定住が可能となり、安定した生活を送れるようになったわけです。

実際に米が行きわたるのと同時に人工は爆発的に増えました。それに伴って、豊かさ、、、という価値観が私たちの間に生まれることになりました。

米がたくさん取れれば、それを倉に納めることができます。米をたくさん持てば、生活は豊かで贅沢もできます。米は価値あるものとして特別のものであり、財の価値基準ともなりました。

米は金と同じであり、米があれば金持ちでした。倉が立ち、米集めは合理的に行われ、土地を守るための軍隊の必要も出てきました。

そこには、権利が生じ、階級が生じてきます。こう考えると、米ができるようになってからの世界は、現在に直接通じる同様の構造を持っていることに気が付きます。

米を金として考えたらそれがわかると思います。すべては米を得るために、社会は動き、存在し、機能したのです。

現代ではお金に変わってしまいましたが、米を取り巻く形でつくられた社会構造は何も変化していません。

豊かさは過度の豊かさへの思いをつのらせ、贅沢、飽食、権力、富への憧れはつのるばかり。

その結果、体は糖質でブクブクとなり、色々なため過ぎによる問題を起こしてしまう、、、糖尿病しかり、癌もしかり、、あらゆる成人病の成立には、こうした社会価値が下地にあるのです。

成人病に限らず、大量消費、大量生産、金融、経済、生きる目的でさえ、米、すなわち過度の富を目指すという流れが自然とできてしまう。

米がもたらされることで、定住、国家という機能が生じて、それが現在にまで至ったことは確かなことなのです。

では、その米は誰がもたらしたのか、、それによって国家機能を作っていったのは、誰なのか、、、、

それが天皇であり、その象徴としてアマテラスであったことは間違いないと思います。

それは神道にも深くしみこみ、米、天皇、神道の流れは、弥生以降の日本の根幹にあった構造でしょう。

しかし、その一方で、縄文の流れをくむ考え方や存在もあったに違いありません。

しかし、米、神道勢力の前で、縄文の流れは穏やか過ぎて、受け身であり、主張ができず、声の大きなものにかき消されてきた歴史があったように思えます。

天皇制にも流れは二つあったと思うのです。本当のアマテラスと誰かが作った国家統治としてのアマテラス。

米があらゆるものを二つの方向に分けていった流れを抜きに現在の日本を見てもきっと誤る気がします。

天皇で言えば、神武以前の天皇とそれ以降の天皇との間には、米をはさんだ乖離がきっと存在しているはずです。

縄文の流れは古く、過去一万年間に一回も戦争がなかったという時代と、米以降の国家とは、大きな違いがあります。

どちらがいいとか悪いではなく、あきらかな違いをまず理解し、足りないものを補う形で第三の方向を、時代にしても国家にしても天皇制にしても、模索していかねばならない時期に至っていると思うのです。

米について悪く言うと、必ず、感情的で神道的な反発に出合います。

それは本当に不思議なほどそうなります。感情的で崇敬的な反発は、本来のものではない気がします。どこかに何等かの無理があるからそうなると思うのです。

天皇や神道のことを悪く言うと叱られますが、仏教のことを悪くいっても、意外と皆あっさりしたものです。

どちらが古いか、、、それでわかるのです。米を悪く言うと反発がありますが、クルミなんか嫌いとか、クルミなんかなくてもいい、、、と言っても、誰も反発などしません。

そう、私、クルミ好きだよ、、、へえ、嫌いなんだ。フーン。と済む話しで終えられます。

しかし、米なんかいらない、、きらい、、というと、そうはなりません。まして、神道の悪口は言えません。天皇に対しても同様です。そういうムードがあります。

私個人は、和歌への関心など、どちらかというと天皇や神道に愛着を抱く方ですが、米、神道、天皇へのうかつな発言はたしなめられることが多いです。

どこか自然でないのです。その理由ははっきりしていて、米も天皇も神道も、それを使って権威を得ようとしている、、、体制を維持しようとしている力が図々しく存在しているからです。

明治政府のおかしさ、、、不自然さ、、、軍国日本のおかしさ、、、不自然さ、、、さらに昔にさかのぼれば、私が敬愛する一条天皇に対する道長の態度のおかしさ、、、それこそ不敬とも思える態度、、

米以降の天皇も神道もきっと利用されてきたのでしょう。

糖尿病に苦しむ多くの人は、米の食べ過ぎ、、、すなわち糖質の食べ過ぎによって多くはそうなったのです。それならば、その対処方法も糖質、すなわち米の摂取を減らすことが、血糖値を上げさせない確実な方法なのです。

脂質やタンパク質は糖尿とはあまり関係ない。糖尿病をさらに突き詰めて考えると、米、神道、弥生以降の国家的、権威化が生み出した、富、豊かさへの信仰がもたらした病気であることがわかります。

食事でなぜ満腹にならなければならないのか、、、

おいしいものをたべて満腹になるのが人生の目的となったとき、糖尿や成人病にやられてしまう。

それは米がつくりあげた国家思想そのもの、権威的で価値あるもののみを追求しようとする欲の体現であり、人間性を本質的に逸脱した構造をしています。

クルミ、、どんぐり、、、クリ、、そして貝、魚、、、を腹が減ったときのみ食した縄文時代においては、満腹という概念はなかったと思うし、不要でした。

ドングリで満腹などあり得ない、、、そんなに食べる気になれない。米はうまいからいくらでも食べられる。それが目的にすらなれる。それが弥生以降の価値観の中心にありました。

ドングリとクリと貝を食していた人は、生きる目的が違ってくる。体の満足や物質の安心感よりも意識の拡大が人生の目標に自然となっていく。

満腹が目的なら人間は物質的となり、意識の拡大が目的なら意識体としての存在になっていく。

行き詰った現代、、、その解決の道を探るには、一度、私たちは、米とは何か、、、神道、、、そして縄文が弥生にすり替わっていくことで何が変わったのかを、洞察する必要があるように思います。

何も縄文に戻れ、、ということではなく、現代の問題を解決しうる第三の道を探す意味において、一度、私たちは、物質よりも魂を重視した縄文に戻る必要があるということです。

肉体が自分なのか、意識が自分なのか、、、このことが、縄文と弥生を分けたもっとも大きな出来事だったと思うのです。