生きる上での色々な障害

人が生きていく上には色々な障害が起こる。どんなにうまくいっている人にも、うまく行っていない人にも、障害は起きていると思う。

その際に、障害が何かを理解していれば、訪れる障害への態度や意識が変わってくる。

障害はない方が良いのは人情としては自然だが、障害がないと本当は何も育たない。そうした一面を持っている。

まず、自分がここにいて何等かの動きに出る。すると必ず何かとぶつかる。ぶつかるから、あきらめることもできるし、対立して戦う人もいる。

障害を克服する道はこの二つしかないとすると、それは確かに不幸です。

あきらめる、、、争う、、、以外にないとしたら。しかし第三の道があるのです。

第三の道は障害と和する道。和するのだから、自分も障害も違ったものになって行く道です。

物理的にはこれを広い意味での発酵現象と言ってもいいでしょう。発酵することで違ったものになっていく。

あくまで自分にこだわり、自分の変化を嫌うと発酵は起こらない。そして対立物との力関係に双方とも負けて腐っていく。結局は死。

ぶつかりあうものがせめぎ合い、対立を深めることはよくありますが、そのままでは、組織でも人でも物事でも結局は衰退し、終えていきます。

発展とは要するに第三の道の和して発酵現象によることになるでしょう。

私が学生だったころはちょっとした哲学ブームでアウフヘーベンという言葉がよく語られました。まさに発酵のことです。

生きている以上は常に何等かと対立する、、、対立が対立のまま終えるのは、その事柄の死を意味する。

そうして人生が狭まり、生き方が狭まり、にっちもさっちもいかなくなってしまう。

自然も人も、あらゆるものが生き残る道は、第三の道以外にないのです。対立をお互いの本質を曲げることなく和し、お互いが一つのものとなって拡大発展していく。

これがわからないと、どうしても、負けない生き方しか目指す方向がなくなっていく。そしてあるものは一時代を築くかもしれないが、結局は死の運命が待っている。

ばい菌が悪いのか、、台風が悪いのか、、、どこかの民族が悪いのか、、、要するにいつか来た道。滅ぼせばよくなると思っている。

宇宙エネルギーを取り込むには法則がある。何も宇宙をつける必要もないのだが、地上のみならず、宇宙のすべてに共通する法則なので、あえて宇宙エネルギーといったのですが、それは対立こそが命を生み出すという点。

あらゆるものには違いがあり、様々なギャップを形成している。それを自然と言ってもいいと思います。

自然界が作り出すものには、決して同じものはありません。人間は工場で同じものを作ろうとしたがりますが、自然界は反対です。

同じものがないから、みんなが生きられるのです。それは、個々のギャップが埋め合わされる際に、宇宙エネルギーが取り込まれるのです。

ギャップの埋め合わせは至るところで行われています。自然とは、まさにそれを行う神の工場のようにも思えます。神の工場は人間が作る工場と違って、色気があり、生気があり、輝きがあり、エネルギーがみちみちている。

たとえば、波打ち際に静かにたたずめば、小波がしずくとなって、サイダーをあけたときのような、小さな泡立ちの音が聞こえてきます。

小さな泡がお互いにぶつかり、消えていく音でもありますが、ただ消えるのみならず、和して消えていく際にエネルギーを吸引している神の工場なのです。

人は波打ち際でその音を聞いているだけで、あたり一帯に立ち込めた吸引のエネルギーを受けて元気になります。

こういうとそんな計測もできないんだろ、、とのお叱りを受けるかもしれませんが、今の科学の限界を言っているだけで、今の科学者に海の力や働きを正しく理解できる人がいないということです。

宇宙エネルギーは、存在するものの活動が作用となり、それらが他の作用とぶつかりあい、合い和するときにエネルギーとして吸引されるのです。すべての命あるものは、この力によって生かされているのです。

対立が和していき、姿を変えることで、あらゆる命は継続するのです。まさに愛の法則でしかこの世は存在しえない。

これが嘘だと思うのなら、どんどん対立し、誰とも何とも対立して、力に頼って生きてみることです。すぐに死ねます。

官僚的なやり方、、力任せのやりかた、、、それらが民の幸福になんらつながらないのは、やり方が間違っているからです。

和すやり方でしかエネルギーは集まりません。その際に変化を怖がる必要などないのです。物がすべてだと思っているから、変化を怖がるのです。

体も国も政治も経済も、物として固定されたとたん、命を失っていきます。衰退に向かいます。私たちの体も運気も状況もすべて、状態に過ぎません。

状態が常に変化しているだけ、、、その変化のありようとして、対立するものといかに和していくかを第一に考えたとき、エネルギーが満ちてくるのです。

生きる上での幾多の障害が、いかにありがたいものであるかの認識に立てれば、私たちの人生はかなり楽になってきます。

争う必要も勝ち負けにこだわる必要もなくなるのです。

そしてエネルギー枯渇からも遠のくのです。

ただし、これは原則であって、実際にいやな相手と和することは難しいと思います。しかし、それを避けきれなければ、やはりそうするしかないのですが、相手が力に頼るとか、一方的だとすると放っておく以外に道はなくなるでしょう。

この場合、こちらが放っておくとどうなるのか、、、実は面白いことが起こるのです。こちらが反発したり、反抗したり、相手からの抑圧に悲しんだり、嘆いたりしているうちは、実は相手にエネルギーを与えます。

一方的でどうしても和せない人に対しては、相手の問題としてそれを放っておく、、、心理的な反応を示さないという態度に出ると、ぶつかりあいから相手はエネルギーを得ることができなくなるので、実は終えていくのです。

自分に愛を求める相手に対する無関心さは冷たさですが、逆に、こちらに敵意を向ける、もしくは圧力を向ける相手への無関心は、相手にエネルギー不足を起こさせます。

かまわないことです。圧力を相手に与えることによる、こちら側の悲しみや不幸や憤りをエネルギー源としている力は衰えつつあります。もともと自分らではエネルギーを生めないので、奪うしかなかったのです。

無視すればその元を断つことができます。