外需と内需
日本はこれまで外需中心の経済システムを貫いてきました。実際には内需は伸びているのですが、外需主体の経済のシステムとそれにまつわる政治は一貫して外需重視なのです。
日本は加工貿易で生計を建ててきた歴史は、教科書でも学んだ通りですが、これは外需重視であり、それに伴う経済と政治のシステムにつながっていきました。
外需と内需では、何がどう違うのでしょうか。私は外需は一般的に悪につながりやすく、内需は一般的に幸福につながる構造を持っていると思います。
たとえば、メロンづくりに精を出す農家では、品質のよいメロンを子供が食べてしまったら、おそらく叱られると思います。
何やってるの、、売りに出すメロンを食べてしまって、、、となるわけです。
これが内需中心のメロン農家ならば、まず、一番おいしそうなメロンはおそらく仏様にお供えするでしょう。次は親しい人に届けてあげる、、、そのあとに、欲しいという方に売って差し上げる、、、順番がそうなっていきます。
仏様に備えた一番おいしいメロンは、お供えのお下がりを家族皆でおいしくいただく、、、そこにはほほ笑みあり、賞賛ありの夕べになります。
父ちゃん、うまいよ、、、凄いね、このメロン。
一方はメロンを作っても、食べてしまったら、こっぴどく叱られ、る世界、、一方はお下がりをおいしくいただける世界、、、同じ生産をしていても、これほどの違いが出てきます。
外需は結局は、すべての労働をお金に集約させることとなり、効率、合理化、スピード、損得優先の世界になります。
直接海外の知り合いに届けるのと違いますから、どうしても間に中間業者が介在してきます。その分、ああしろ、こうしろとなり、売るためには、農家の意思など関係ない世界に生産者は追いやられてしまうのです。
消費者も同様です。本当に良いものではなく、中間業者の層元締めが儲かる内容のものしか与えられなくなっていくわけです。
伝統はくずれ、さつばつとしていく。
外需中心の経済は生産と消費の間に入る人が大きく設けるためには有効でも、他の多くの生産者と消費者には、あまり人間的な喜びを与えないシステムになります。
外需と内需は結局は地域に密着しているかどうかでも図れます。地域に密着した商売なら、そんなには悪いことはできません。
すぐに評判となり、結局商売を続けることはできなくなるでしょう。
地域を取り仕切る親分的な勢力によって、ゆがめられるというのは、大変な不幸ですが、地域経済が壊れたことで、そうした悪癖は根本的に弱まってきています。
今こそ、内需を拡大させるチャンスですが、政治が旧態以前の外需中心の大企業と密着していて、国民生活は置き去りにし、置き去りどころか、犠牲にしてでも旧態以前の制度を守ろうとしているのが現状。
悲しいものですが、いつまでも続けらるものでもないでしょう。外需と内需の違いを個々が本当に理解していくことはこれから重要だと思います。
真の内需中心の文化と経済が達成された暁には、この世は確実にユートピアになります。
内需のもっともシンプルなものは、家庭の食事や掃除や潤いです。外需の給与獲得のために、外需モードの生活を強制され、内需の重要な家の食事も掃除も潤いもおろそかになっている。それがすべての問題を生んでいると言ってもいいかもしれません。
常に内需と外需のつばぜり合いは歴史の中であったのです。外需を目指す人は、故郷を持たない人です。故郷を持たないので、その地とその地に住む人間の感情も理解できません。存在すらないがしろにしかねません。
インディアンは何人殺されたのでしょうか。オーストラリアでは何人が殺されましたか。ペルーでは、メキシコでは、、、ハワイは本当に美しい島だったと思います。
すべては、外国の船がやってくるまで、内需で暮らす人々は幸福に暮らしていました。外国の船が求めたものは、本国に持ち帰る特産品であり、ゴールドであり、すべての価値ある商品でした。
自分自身に満足がない人は外需を形成します。こういっては悪いかもしれませんが、近代を作ったのは、基本的に白人のそうした神経症的な欲求であったというのは、かなり事実に近いと思います。
この世のあらゆる現象を理解するためには、どうしても神経症的な補償行為を知る必要が出てきます。
わずか60キロの人間を運ぶために鉄二トンを移動させなくてはならない車社会など、神経症的欲求でない限り、理解することはできません。
過度の都市化は外需と関係することは確かですが、そうした中にも神経症的な欲求が見られます。
近代と現代のありようとその歴史は、実に神経症に負けた人間がもたらしたものだと私は理解しています。
神経症を克服することは、本当はそんなに難しいものではないのですが、そのこともわからず、補償行為としての文明を発展させてしまいました。
寝れないときはおきていればいいという当たり前の事実を失った人が、外需に頼りだして、この文明を作り上げたのです。
島の中は内需しかない世界です。そこが一つの世界となります。その世界に永遠性を感じられない人は島を抜けていくのでしょうが、それはそれで構わないのです。
島はまたいつでも戻ってくる人を拒否などしないのですから。しかし、戻るべき島を壊してしまったら、私たちはどこに行けばいいのでしょう。
外需文明が今、行き詰っています。外に物を売ってもうけてきた企業がどんどん苦しみ出しています。
内需なら人の喜びと幸福と直結しない限り成り立たない文明、文化、経済となるので、行き詰りはありません。
内需でしか、本当には儲けることなどできないのです。イノチと直結しない物やサービスなど、どんな価値があるというのですか。すぐにばれてしまうものばかり。
そして飽きられたのです。コンビニも○二クロも中性洗剤もシャンプーもリンスもガン治療も出世もドルですら、、、飽きられたのです。
ただ、変わりのものがない、、、ただそれだけで生き延びようとしている外需。外需の最大のものは戦争でしょう。
そこに行き付くしかない。すなわち神経症の世界そのものではないでしょうか。
若い人は企業しなくてはいけないのです。新たな内需を起こし、新たなサービスを生み、新たな魅力、新たな仕事、新たな物を生み出さなくてはいけないと思います。
それを流通ルートやコンビニで売りたいなどというバカげた考えを捨て、縁ある人に届ける、島の経済を考えるのです。
内需の最大のものは、故郷の自然の復活かもしれません。美しい郷土を再びよみがえられせることができたら、観光業がこれまでと違ったレベルで再生できるでしょうし、自然の復活は地球が求めているものです。
神経症の治療にこれ以上のものはありません。そこに来た人は癒され、そこで食したものは、人を幸福にし、そこで見たものを、人は生涯忘れないでいてくれるのです。
外需から内需へ。悲惨な復讐などに関心はありませんが、外需でやられた人間と自然に向かって、私たちは内需を起こし、しいては自然を復活させる大事業に取り組むべきなのです。
政治が指導することは今はありませんが、この流れが大きくなれば、いずれそうなります。本当に儲けられるのも、もう内需しかないからです。それとも、戦争ですか。もうばれているのですから、内需で行くしかないのです。
船がやってきて、幾多の人が殺され、その文明と文化を破壊されてきた無念さは、必ず、私たちの遺伝子の中にあるはずです。さあ、美しい復讐が始まります。
誰一人、不幸にしない美しい復讐劇。外需を内需に変えていく、、、
それにしても、一番おいしいメロンをみんなで食べる幸福、、一度味わってみたいものです。