運気の法則
7月4日記事
運には法則があることは前にも何度か語ったことがあったと思います。
その法則に沿って生きてれば、誰でもそんなには悪くなく生きられるのに、つい忘れてしまうのが私たち人間です。
けっこう適当なんです、人間って。自分の幸福のためになるのがわかっていても、つい反対のことをしたり、忘れて元の木阿弥に戻ったり。
そう考えると、本当はひどい運勢だろうが、良い運勢だろうが、どっちだっていいんじゃないのか、、、という考え方も出てくる。
すべてはあざなえる縄のごとしで、裏表は裏からみれば表裏。表裏一体が真相。
見ている視点とみられている実態が逆転しているので、価値観は転倒します。幸福を求めても得られるわけではなく、また不幸を覚悟したからと言って不幸になるわけでもない。
むしろ、逆転している真実からいうと、幸福を求めることによって不幸になる方が真実に近くなる。
実際そうなんですね。大勢の人がほとんど例外なく、幸福になろうとしている、、、でも追っても追っても幸福にならないどころか不幸になっていく、、、
逆に不幸だろうが何だろうが運命を受け入れた人は不幸のどん底からでもどんどん良くなっていく。
運の法則の最大のものは、この視点が転倒している本質を理解することに尽きる気がします。
表裏一体、、、、変化のみが真実。
善悪も実はそんなものなのかもしれません。飯島先生のフリーエネルギー理論は哲学でもあると思うのですが、
命は一体、、、すべてが命、、命ないものなどこの世にはなく、プラスティックでさえ命の集合体。
表裏一体が立体的な世界観になっていく。そうなると善悪なども吹っ飛ぶわけで、イノチの大本に戻ったとき、記憶がまだ残っているケースでは、こんな会話が交わされているのではないか。
お前、あのとき、本気で怖かったぞ、、
ごめんごめん、ああでもしなきゃ、迫力ないじゃん、、
しかしお前、いくらなんでもあれはないだろう、、、
うん、あれはほんとうにうまく働いたよな。本当に悪魔みたいだったろ、、、
もしかしたらそんな風にもなっているのかもしれない。ひどい出来事、悲しみ、絶望をエネルギー源にする悪い存在もいるだろうが、それによって、イノチが輝き高まりを見せる、、
これも裏表になっている。まして、私たち個人の運など本当はどちらの転んでも同じようなものでもあるのだ。
と言いつつも、私たちは少しでもよくなりたいと願い、怖いものにおびえ、それを避けようと、せめて愛する者をかばい、、、先の見えない旅を進めていく、本当にいじらしい存在なのだ。
存在のいじらしさに神はきっとこたえてくれる。
鬼子母神の話しや船人を襲う悪魔の話しを聞いたことがあるが、食べられる寸前に必死に経を唱える旅人を見て、悪魔が感じ入ってしまう、、、という話し。うろ覚えだが、なんだかすごく心にしみる。
鬼神でさえ感動させるものとは何なのか、、、人にはそれがあるのです。言葉にはそれがあるのです。
踊りにも、歌にも、それがあるのです。
それから離れた芸術などは本当は芸術とは言えないと思うけど、まあ、いろいろな鬼神がいるだろうから、感動も一つであるはずないし、、、
その鬼神さえ感動させるものが何かはよくわからないものの、なんとなく、畏怖する、、、何となく自分にはわからないが恐れいいる、、、
企業家にも政治家にも、そして宗教者にも、そうした匂いがなくなってしまったのは本当に残念な時代ですね。