小学校のクラス会

小学校のクラス会があるときょう電話をもらった。電話を受けたパートの方が、聞き取りにくそうに卒業した小学校の名前を言っているのを聞いて、すぐに電話を代わってもらった。

すでに廃校になってしまっていて、もう卒業した小学校はない。港区にあった古い学校で、もし今も続いてたなら150年くらいになるのではと思う。

森永製菓の創始者が出ており、運動会のたびに森永からお菓子が届けられたのを覚えている。

クラスは2クラスあったがクラス替えをしなかったので、6年間同じメンバーだった。そのためか、今でもずっとクラス会が続いている。

幹事もいつも同じで競馬好き。今日も電話口でまず出たのが天皇賞の結果についてだったが、そのあとは年金の話しとなった。

みな今年か来年から年金が満額出るのに合わせ、ほとんどの人が仕事をリタイアしたらしい。幹事さんもこの夏で辞めるらしい。

彼は二、三か月休んだら、また何か仕事を探すと。趣味を兼ねてのようなものだろうと思う。

いいなあ、、、とつい言葉が出た私だったが、それは彼の世代が最後の滑り込み世代だと思ったからでもある。

私も同じなのだが、定年に関係ない仕事だし、リタイアを考えたことがなかった。年金ももらえるが、現役と言っても経営的面が強いため安定要素にはならない。競馬もやるし。

自分には生涯、安泰や安定という言葉が当てはまらないとつくづく思った。でも、定年であとは自由なことをすると創造するだけで楽しくなった。

自分ならどうしよう、、、と、電話を切ってから想像が膨らむ。一番やりたいのは、やはり旅に出て、よい温泉を探しながら、すたれかけてはいるものの、本質的な魅力を持つ村の祭りや伝統をじっくり体験すること。

そういう村に一か月くらい滞在して祭りの一連の流れを見て体験できたら楽しいだろうな、、、なんて考えると笑いたくなってくる。

でもそうなると、きっとそのことをブログなどで紹介して、こんなものがあると、みんなで作ってみようとか、、祭りの最高の部分が人がいなくて欠けてできないでいるので、今、必要と思える、こうした神霊を下せなくなっている、、、人を集めてやってみよう、、とか。

結局、今と何も変わらない生き方になってしまうのだろうなあ、、、と思ったら、想像が止みました。

ともかく小学校卒業から半世紀がたっているが、記憶はけっこう鮮明。時は一直線ではなく、一か所に未来現在過去があるというのだから、そんなものなのかもしれない。

また未来がパラレル的に存在するというのもそうなのかもしれず、とにかくすべて、この世のことは、何一つ問題がなく、すべて幸福で、歓喜で、本当はよいものだと感じる。

昔から私には妙な思いがあって、どんなに苦しく、つらく悪いときでも、それは嘘の姿であり、苦しくてもうれしく、つらくても素晴らしく、、、という構造をしていることを体感的に理解していた。

なので、なんで自分だけ、、というタイプの悩み方はしなかった。そうした悩み方は不当だと思えたからだ。

今の私たちの世の中は、確かに金輪際の悪の世に近いと思うが、それ自体が本当にパロディのようなもので、深刻になる必要も、恐れる必要も本当はないのだと思う。

本質的でないものは、本当には力など持てないことがやはり真実であり、戦争と平和でピエールが言うように、

心に誰も命じることなどできないのだ。

この世が物で物体だと思っているからこそ行き止る。もちろん物体は美しく素晴らしいのだが、本質は心や意識にある。

その意識は生まれることも死ぬこともない、、、それが自分の本質にあるというおめでたい事実の前で、死のうが傷つこうが、本当は幸福なのだ。

今年から満額の年金がもらえる、、本当にそれはご苦労さまであり、嬉しいものだ。しかし、12歳の小学校6年の時、これから50年をパスしてもらいますが、その代り即年金をもらえるコースもあるけど、どうしますか、、、という選択があったとしたら、誰一人、50年をパスしてすぐに年金をもらおう、、なんて思う人はいないだろう。

苦しいことがあっても、一歩一歩、今を生きていく方がいいのだ。その中で本当のものを掴んでいくことが人の生きがいなのだ。

もちろん年金をもらいながらもそれはできる。しかし、それは滑り込みセーフの年代だけのことであって、これからの若者がそうなるとはわからない。

しかし、それで損するほど人生の仕組みはヤワではない。どんなに厳しい現実、、、どんなに苦しい生活、、、しかし目を転じることさえできれば、それはハンデではなくなっていく。

何が人生か、、生きるとは何なのだろうか、、、安易に宗教や信条にゆだねることなく、これからの人は、仲間通し、刺激しあい、学びあい、、真摯に、つらくとも真剣に生きていく姿勢が大切なのだ。

安心な安全な人生を得るのももちろん素敵だが、不安の中で真実に近づける時代はさらに進んだものをきっとつくっていく。こんな時にしかそれはできないのだから。

とにかく苦しいというのは、質的変化が可能であるという、素晴らしいことなのです。