早春賦
春は名のみの、、、ご存じ早春賦の歌で、ちょうど今頃か、もう少し先の北国の情景を詠んだ小学生唱歌です。
私は子供のころから歌が好きで、家でもよく歌っていました。小学校は合唱が盛んな学校で、昭和三十年代には、確か、NHKコンクールで優勝したか準優勝した記憶があります。
K先生という熱意ある音楽の先生がいて、駅から学校までの道すがら、髪を振り回してタクトを振る仕草で歩いていました。
実際にNHK全国コンクールでトップをうかがうまでに合唱を成長させたのですから、実力もあったのです。
私も合唱コンクールの選抜に入りたかったのですが、テストでいつも落とされました。しかしK先生はその都度、とても悲しい顔をされるのです。
あるとき、この歌は難しいから、、と言って、見本を私に歌わせたことがあります。選抜テストではいつも落とされるのに、なんで皆のお手本として歌わせられるのか、、小学生だった私にはわからなかったのですが、今、思うに、私の声が裏声に近い、カウンターテナーのような歌い方だったからだと思います。
裏声なのでいくらでも高い音が出せました。中学校で音楽の先生が面白がって、私がいくらでも高い音を出していくのを、楽しそうに聞いていたことがあった。
しかし、その声は合唱には向かなかったのでしょう。全体の調和を崩してしまう。まるでオーケストラのピッコロのような声なので、合唱隊には入れなかったが、曲の理解が高いので、K先生はきっと悲しい顔をされたのでしょう、と勝手に解釈。
中学二年の頃から変声期に入り、もう高い音は出せなくなりましたが、もし中世のヨーロッパにでも生まれていたとしたら、もしかしたら、去勢されてカストラーレとして歌っていたかも。
早春賦はやはり小学生が歌うのがいいですね。早春賦に限らず、小学生唱歌はやはり小学生に限ります。
実はそれって歌に限らず、絵でも、詩でも、同じなのではないかと、思うことが多いです。
ピカソはやっと子供の絵が描けるようになった、、、と言いましたが、私はピカソの絵は好きですが、それでもまだ子どもの絵にはかなわないと思います。
ピカソには、まだしつこいこだわりや力で押し隠そうとする自分があり、それが絵画に出ていると私は感じています。そのため、ピカソの絵を見ていると、苦しくなってくる。人に幸福をもたらす絵とは多少違うような、そんな印象を勝手にですが抱いている。
それに比べて子供の無心な絵はやはり天衣無縫でもっと自由です。結局、子供はみな自由なのに、どこかで大人や社会がそれを壊していってしまう。
本当にバカなことをするものです。みな最初は天才なのに、それをバカにさせて金太郎飴にしていく社会構造。これを修正したくても、修正しようとしている力が金太郎飴なのだから、難しいのです。
大人が求めたものは、金と物と権威と支配。その裏には恐怖、心配、不安。そうした不安を埋め合わせるための文明や社会システム。なので、目に見える成果しか成功とみない。
そのため、自然は壊され、人は傷つき、若者は犠牲となり、子供の成長の芽は奪われる。
本当にバカなことをしているものです。不安から始まると、すべてがおかしくなるのです。どうせ死ぬ運命を持つ人間に不安など必要はない。
もしかして、死んだらどうしよう、、、などと思う必要はない。どうせ確実に死ぬのですから、心配など不要なのです。
しかもそこには恐るべき誤解がある。死が本当はどういうものなのか、、多くは間違っていると思います。
私たちが死ぬことなど本当はないのです。肉体は滅んでも今考えているあなたの意思、思念、意識は何も変わらずに残る。生き続けている。
あの世で自分意識が他との統合においてなくなった場合でも、もっと大きなイノチの意識と一体となるに過ぎない。
あなたの中に質量ゼロの自分が常にいるではないですか。体は何キロ、身長は何センチ、、以外の、質量ゼロのあなた。
今、考え、意識し、世界をとらえ、思っている自分は、数量化はできませんが、確実にいる。それが本当のあなた。それは死んでも消えない。なので、死なない。
この世に死ぬものなどないのです。すべてイノチでできたものしかありませんから。宇宙人はそれを知ったうえでの文明や文化、科学技術を作っているから、どんなものも作れて、しかも害を及ぼさない。
私も無害化された塩酸に指をつっこんでも何ともなかった。やればそんなことだってもうできるのです。原発だとか、石油が足りないとか、何を偉そうに言うのでしょう。あっという間に次にいけるのに。もうそこまで来ているのに。
子供の絵の素晴らしさは、そのことを知っている。ピカソは再び子供に戻れたようなことを言っているが、本当には戻ってなどいない。彼の絵はまだまだ苦しいです。
文化も芸術も文明もきっとこれから変わります。日本の浮世絵などは、きっと最高の芸術にグレードアップする時代がやってきます。音楽も埋もれていた民族の音楽にレベルの高いものがあったり、ジャズも掘り起こされたり、披講もそうかもしれませんね。
とにかく変わります。イノチを感じさせないものなどに、大した価値などないのです。これが唯一の基準です。
そのことがわからないと、この文明は行き詰るばかり。しかし、底辺からわかってくることになるでしょう。また、最上位もわからねばならない。上と下から迫っていく楽しい時代にきっとなっていきます。上と下から行くので丸く収まるのです。