生きているのかー生かされているのか

私たちは生きているのでしょうか、、、それとも生かされているのでしょうか。

どちらを思うかで、自然と人生観も違ってくるような気がします。

生きてると思えば、自分の人生への責任が出てきますので、最大限の力と可能性を発揮して、自分を鍛え、自分の可能性に挑戦していく人生観になると思います。

それはそれでとても素晴らしいことです。

では、生かされていると思う場合はどうなるでしょうか。こちらでも、やはり同様に、自分の人生への責任を感じると思います。生かされているのですから、きっと何か理由もあるだろうし、与えられた自分の可能性を広げようとしたくなるでしょう。

そのためには、健康にも注意するでしょうし、自分を大切にしなくてはいけないと考えると思います。

なんだ、どちらも結果は同じじゃない、、、ということになりますが、大きな違いが一つあると思います。

存在の不安に関してです。生きていると思えば、自分の存在に害をなす可能性に敏感になってきます。

健康をそこなったらどうしよう、、、成功しなかったらどうしよう、、、お金がなくなったらどうしよう、、、だから頑張らなくちゃ、、、と、思って、真剣に努力を重ねる傾向になるでしょう。

その結果、発展し、成果を上げる人は立派な人と言われるし、本人もそう思うことでしょう。

要するに、害なすものに立ち向かい、それに打ち勝ち、自分を作っていく生き方です。

確かにこれはこれで素晴らしいと思います。私もどっちかというと、こういうのは好きな方です。

しかしもう一方の、自分は生かされている、、、という生き方、考え方が与えてくれる気楽さ、楽しさも決してないがしろにできません。

生かされているというとらえ方の強みは、たとえば、病気や死に関してとくに強く表れると思います。

生きていると思う人が病気や死に直面しそうになると、それに抵抗し、徹底的に戦う、、というスタイルにどうしてもなると思います。

しかし、生かされていると思えば、それとは多少違った反応を示すようになると思うのです。

生かされている以上、生かされているまでは、病気になろうが、ガンになろうが、事故にあおうが、決して死ぬことはない。生かされているうちは死ぬことはない。

逆に、どんなに立ち向かっても、打ち勝とうとしても、死ぬときは死ぬよ、、、という気楽な考えを持てる気がします。

何ごともある程度までは頑張るけど、大きな運命や流れなど、自分ではどうすることもできない部分に関しては、いたって冷静に見ることができる態度とでもいいましょうか。

生かされていると思えば、そういう気持ちになれる。生きようとして生きられるものではなく、死にそうにみえてもときが来なければ死ぬことはない、、、自分の努力と関係のないもっと大きな世界があることを知っている。

なので、大きな運命に身をまかせることが苦痛でなくできる。死は特にそういう分野のものですから、生かされていると思う人にとっては、死の陰と戦う、、、というスタイルはなくなっていく。

ガンにかかっても生かされれば生きるし、どんなに良い療法を使っても死ぬときが来れば死ぬ、、、

究極の場面において、この違いは出てくると思います。どちらも具体的にやることはそんなに差はないと思います。おぼれているときに、目の前の木に必死になってどちらもしがみつきはする、、、

しかし、一方は何としても生き延びると考え、もう一方は任せてしまう。

生きるためにさて、どちらが有利だと思いますか。私は実は後者だと思うのです。

一般的には、最後まであきらめずに努力し、前向きに考えて行動する方が有利な現実をもたらすと信じられています。

多くの場合、確かにそうだと思います。しかし、どう見てもダメ、、どう考えてもどうにもならない、、というケースが死などの大きな運命の前に訪れる特徴ではないでしょうか。

その際に、一秒でも生き延びると考えるか、死に際を受け入れると思うかでは、かなり違った形になりはしないかと思うのです。

一秒永らえたところで、そんなに大したことではなく、せっかくの窮地なのですから、そういうときに質の向上を図ったほうが得ではないかと感じるのです。

自分の努力で生きているといくら考えても、絶体絶命のピンチに立った際に、どこかで運命を受け入れなくてはならない時点がやってくると思います。

現代医学は一秒でもとにかく命を長らさせえようとします。生きてる派の考えですよね。

それが元で医学は大変な進歩も遂げたので素晴らしい面はあるのですが、もう無理だという時点が本当はあるはずです。

その際には、死の直面という究極の状態をむしろ受け入れ、生かされている力にお任せするという姿勢を持つと、奇跡は結構起きてくると思います。

生きている派から生かされている派への変更地点が、人生には何度かあるように思うのです。

絶体絶命のピンチの前で、何としても最後まで努力した方がいいと考えるのか、何か違うんじゃないか、、、という意識を受け入れるか、、、

努力によって問題が解決できそうならそれはそれで頑張ったほうが良いのは当然ですが、もう無理だ、、となったら、違う意識の世界に自分を追い込んだ方がよいのではないかと。

そのために究極の出来事が実は起きているのではないかとすら、私には思えます。

究極の出来事は、ですから、何等かのこれまでと違う入り口になるはずなのです。

それを一言でいえば、生きている入り口が閉ざされ、生かされている入り口が開いてくることなのです。

生かされているという入り口の奥には、生かされているあらゆる命が共通してあります。

自分が邪魔だと思っていたものも、人も、悪いやつだと思っていたものも人も、すべてが、実は生かされている世界の住人だったとなったとき、私たちを取り巻いていた障害は雲散霧消してしまいます。

なくなってしまうのです。全部、生かされていたのですから、同じ住人だったのです。もっと言えば、同じ命だったのです。

同じ命であるなら、敵対は不要であり、敵対するということは原理的にも存在しなくなります。

生きている意識には限界があるが、生かされている意識には限界がなくなるということでもあるのです。

怖い映画を見て、驚き、焦っても、それは楽しんでいるのです。映画の中の出来事であって、自分に起きていることではないと知っているからです。

映画館の外にでれば、通常の自分の世界があることを知っているから、映画館の中だけで、驚き、焦り、、を楽しめるわけです。

自分が生きているというのも、映画館の中の出来事に似ています。ドラマの筋書きが非常に自分に不利となり、面白くなくなったら、私たちは映画館を出れば事足りるのです。

本気で死ぬまで付き合う必要などありません。本気でそのまま死んでしまうとどうなるのでしょう。映画の世界に入ってしまうのでしょうね、おそらく。それが幽界と言えるでしょう。映画が現実だと死んだのちでもそう思っているのです。

どこでどの時点で映画を終わらせるか、、、それとも映画を映画と知って楽しむか、、、本当の自分は生かされている一つの命にあることを知れば、それが自由自在になるのです。

あなたが直面している苦悩も苦痛も本当は映画の中での出来事なのです。映画であることを知って立ち向かえば、消耗することにはなりません。

帰るところはいつでも一つの命の世界であって、そこはそれこそが蜜と乳香のあふれる園であり、誰もが持っている本物の価値ある世界なのです。

それをこの世に映していくことが一番楽しいことなのだと思います。

生かしているのですから、何かの配役をやってくれなくては困ると、天は考えていることでしょう。そしてあなたに絶対にあっている配役が何かあるはずなのです。

そうやってみなが自分の役柄を真剣に演じ出したら、これは面白い劇となって、みんなが喜ぶわけです。

人も動物も植物も鉱物も神も何もかもが喜ぶ、、みんな配役ですから。みんなを配役として生かして使うのがこの世の目的なんです。大根役者はいるが、不要な役者はいない。

あなたの役柄にかかっています。生かされている以上、あなたに求められている役柄があるはずです。

生きていると思うとどうしても安全や心配がさきに立ちますが、生かされていると思えば、どうせ死ぬまでは生きられるのですから、役柄重視で人生を楽しんでやろうと思えるはず。

そんな感じでやりたいですね、、、それともそんな甘いものじゃないのでしょうか。

私は甘く考えるのが好きで、まあ、歳のせいかもしれませんが、これからも楽しい劇をみんなでやりたいなあ、、、幽界ではそれが劇とも知らずにつまらない劇ばかりやってるし。

人生でしかめっつらしちゃったら、何か天に申し訳ない気がするんです。