小さな差

物事には極端な差が生じるものです。人の世も同様で、極端な貧乏から極端な金持ちがおり、運動神経が極端によい人もいれば、極端に悪い人もいる。

本当に大きな差があらゆる事象や物事にはあります。それらは、最初から運命的にそう決められているものなのでしょうか。

また、こうした大きな差ができる以上、才能や運命にははっきりとした違いがあって、努力してもどうにかなるものとは違うのでしょうか。

よく糖尿病になりやすい遺伝子とか、ガンになりやすい遺伝子がわかるようになった、、、という話しを聞きます。確かに遺伝的に、すなわち運命的なものは多少はあるのかもしれません。

政界のサラブレッドとか言って、血は争えないなどと言いますが、でも本当でしょうか。

一流意識の人の集いなどに参加したことはありませんが、日本にもそうしたソサエティが確かにあるようです。そうした人と一般の私たちには、本当に大きな違いがあるのでしょうか。

私にはそうは思えません。血統も一流、立場も一流という人と、不思議と会う時期が以前ありましたが、そうした一流と言われる人の中でも、大きかったのは、やはり個人差だったと思います。

尊敬できる人もいればそうでない人もいる、、一般の私たちの世界と同じなのです。

糖尿の遺伝子がある、、と言われれば、確かに気になりはしますが、考えてみれば、植物の遺伝子と人間の遺伝子など、そんなに大きく変わらないのを見て、私は驚いたことがあります。

ネズミと人間なんて、もうほとんど同じなのです。命あるものは、まず間違いなく遺伝子的に見ても、みな兄弟だと思っていいでしょう。それほど似ています。

家柄や血統どころか、ネズミとさえ、私たちはほとんど同類の遺伝子を持っているということもできるのです。

遺伝子という運命的にさえ思えることでさえ、ほとんど同じなのですから、貧乏と金持ちも、運が良い人も悪い人も、とんでもない大きな差があるように一見見えて、実はほとんどそうでもない、、、という見方もできるのではないでしょうか。

よく、トランプゲームでも麻雀でもいいですが、人がやっているのを後ろから見ていると、運が本当に微妙な差で出てくるのがわかります。

最初から悪い牌ばかりだと、どうしようもないので、振り込むという、損害がそれほど生じません。本当に運が悪いのは、かなり良い流れで、そして振り込んで損するパターンです。

それはたったひとつの小さな思い違いや、本当に小さな流れによって決まります。その小さな思い違いを修正したり、小さな小さな流れを自分に付けた人がゲームでも麻雀でも大体は勝利します。

麻雀なんてもう20年近くやったことがありませんが、話しをすると何だかやってみたい気持ちになりますね。

まあ、それはいいとして、この小さな小さな流れや失敗が運を決するというのは、勝負事の世界だけのことではないのです。

私たちの人生がまさにそうだと思います。人生における目に見える大きな違いは、才能でも血統でもなく、小さな小さな分岐点があり、その分岐点における判断の違いだと感じるのです。

蜘蛛の糸は、芥川龍之介の小説ですが、一匹の蜘蛛を助けたこと、、たった一回、ふっと心が動いた高い意識の小さな行動によって救われるという、見事な内容です。

多額の寄付はそれはそれで素晴らしいことですが、自分の一食分を削って寄付した貧しい人も、福島震災などの際にいたと思います。

そうしたお金がきちんと使われずにほかの用途に流れていることを知ると、本当に悲しい思いになりますが、その時、多額の寄付が生きてないというジレンマとしてあります。

その一方で、一食分を削って寄付した一般の人の気持ちを踏みにじることは、さらに許されないと思わないでしょうか。

天は必ずそう思うのです。天が求めるのは、金の大小ではありません。金の大小は地が求めるもので、それはそれで価値があります。

しかし、天が求めるものは、意識の高さです。一食分を削る意識は、自分を捨てて、自分を他の人と同等に考えた行為です。天はその意識を自分=他人を知る者の意識として捉えます。

自分=他人という高い意識に一度でも達したなら、その人の人の意識の領域は格段にアップします。

自分=他人ですから、その人はもう他人から傷つけられることはなくなるのです。何かが起こるとすぐに人のせいにする人は、自分=他人という意識に一度たりとも本当の意味では達したことがないからそういうことを本気で言えるのです。

自分=他人の意識に、どんなに小さくとも達したことがあれば、その後どんな被害を他人から受けようが、愚痴や不満はもちろんあるものの、自分の人生をやり直す力を失うことにはなりません。

被害者意識に負けることはなくなるのです。自分=他人という意識に小さくともいったん達したならば、この世に起こる出来事はすべて自分内の出来事であり、自分が傷つくことにはならないからです。

何が本当に得かというと、意識が高いことが本当の意味で得なのです。そしてそれが大きな大きな領域を私たちに与えてくれるカギですので、意識を高くしていく流れを自分の中に持つことが重要です。

そしてそれは、大きいことではなく、小さな小さなことにおける決断と行為によって、なされていくのです。

なので本当の開運のために、私たちは何も大きな決断も努力も本当は必要としません。次の段階においては、大きな決断が必要になるケースはもちろんありますが、その前の小さな意識改革なくして大きな決断をしても、どうせ自己防衛から来る決断になるでしょうから、たかが知れていますし、おそらく良い結果にならないでしょう。

大事なことは、小さな小さな意識改革なのです。悪人が何だ邪魔だなと思って、蜘蛛を踏みつぶすことは当たり前の日常意識だったのに、なぜか、蜘蛛の命が気にかかり踏みつぶさなかった、、、そしてそのことさえ自分は忘れてしまう、、、忘れるようなことだから純粋なのです。

するとお釈迦様はそういうことだけを見ている。こちらの意識の変化だけを見ている。

すでにいろいろなことで私たちは持っている人から、進んでいる人から、頭の良い人から、、、すでに決定的な差をつけられていると思っているかもしれません。

差を埋めるためには絶望的な努力や我慢をしなければ二度と追い付けないと、そう思っているかもしれません。

しかし、そんなことはないのです。小さな差です。小さな道の分かれ目を、それこそお釈迦様でもイエス様でもたくさん用意してくれています。

小さな分かれ目は毎日いっぱいあります。その時々で、できるだけ自分の高いほうの意識にそった判断と行為をなしていくこと。

それが大河を呼び込む唯一の方法なのです。

小さな差の前では誰もあなたのことを見ていません。高い意識は人の評価とは異なる地点にあります。人も見ていない、、自分も忘れてしまう、、、だから価値があるのです。それが新しい道を呼び込むのです。

天がそれを見ているからです。

逆に悪事も必ず隠れて行われます。そしてそのほうが得だと思っている人が残念ですがいます。

しかし低い意識は高い意識に従うしかなくなります。この世的にはマイナス意識が勝つことが多いのも事実ですが、マイナスが勝つためには、高い意識との格差があるからで、全体が今、劣化しだしているため、この世は悪の世になりつつあるように見えて、実は格差からくるエネルギー流入が限界を迎えつつあるのです。

なので、悪にもその力の限界がやってきます。というのは、マイナスには絶対マイナス温度があり、それ以下のマイナスは存在しません。しかし高い方の温度は無限にあります。

確か、マイナスは193度でしたっけ、、、ちょっと忘れましたが、それ以下ではすべての元素が動かなくなるのでそれ以下のマイナスは存在しないと思います。間違っていたらごめんなさい。(絶対0度は-273度のようです)

すでに現代人は悪の敷いたレールの上でかたまってしまったような人が多いですから、意識格差が生じなくなるとフリーエネルギーは入り込みませんから、残念ですが限界があるということです。

意識が高いほうへシフトすれば、これは温度と同じで無限に発展するのが宇宙の姿です。よくできていると思います。高い意識とさらに高い意識との格差にエネルギーが流入するのですから、それは歓喜の構造ですね。

しかしその出発の一歩は、常に小さな小さな意識がより高いものにシフトした際に訪れるので、それが人間の責任なのです。

何も世界を変えようなどと力む必要は私たちにはないと思います。そういう立場の人もいるので、そういう人たちにはもちろん頑張ってもらわねばなりませんが、私たちは自分との闘いです。

戦いと言っても、大したことではないのです。ほんの数秒、、ほんの少し、、ほんのちょっと、、、私たちが自分大事の意識から離れ、自然な人情をもって他を見つめる、、、働きかける、、、それが未来のすべてを決めてしまうのです。自然な人情のなくなったことが、人類とこの地球を滅ぼそうとしているのです。
私と他をつなぐ音がある