冬至から立春は人間に与えられた時間
22日の午前8時ちょっと過ぎに冬至。冬至から立春の2月4日までは、万物が滞り眠りにつくものの、無の中で意識がうごめく重要な時期です。
この時期に計画を描くことが大事で、意識のうごめきが物事の多くを決めると言ってもいいわけで、意識的な計画があるのとないのとでは、先々が違ってきます。
一年の計は元旦に、、、ということわざは、元旦も含むこの時期のためにあるようなもの。
自分が決めたことが自分の運命を作っていくと考えればいいと思います。きょうは楽しむ、、、と決めた人は、やはりきょうという日を楽しみます。
これと同じで、ちょっとしたことですぐにイライラしだす時は、きょうはつまらない日と、決めているのと同じになります。
外部から訪れるものが人に本当の不幸をもたらすことはそう多くはありません。外部から訪れる不運は誰にでもわりと公平に来ることがある。
来た災害や災難に、どういう名前を付けるかで、私たちは自分の運命を決めているのです。同じ災難を味わっても、一人は運命を呪い、立ち直れなくなる。一人は来たものは仕方ないと受け入れそれに対応している。
対応しているうちに何だか災難なのだか楽しいのかわからない地点にまで行ってしまう人がいる。傍からみていると大変でも、意外に本人は楽しんでいる。
災難も不運も自分がそれを災難とか不運とか不幸と決めつけなければ、実はそうはならない。中には、本当に誰が見ても不運としか思えないこともある。しかしそれだって最後にはどうなるかはわからない。
訪れた幸運にしろ不運にしろ、こちらが勝手に幸運とか言って有頂天になったり、不運とか言って自分だけがさも不幸であるかのように振る舞う必要などない。
やってきたものが本当は何だったかなんて、誰にもわからないのだから。ただ、本人がそれに名をつけてしまうと運命は固定化し始める。
俺は不運だ、、と決めつければ、結果はそうなるしかなくなる。永遠の魂を持つ人間なのだ、、、勝手に運がいいとか悪いとか決める必要もないのだ。
訪れるものを過大視するとどうしても有頂天になり、また失意を増大させる。訪れるものは、何かに任せて、自身は計画を練り、意識を何に向けるかに専念したほうが得。
きょうから始まる立春までの時間はそれがぴったりとあっている。真冬にあたる動きが少なくなる仮死状態のような自然界。しかしそこで命が消えたわけではない。動きが消えた分、情報は拡大し、意識は研ぎ澄まされ、計画を思い、練るには最適な時となる。
すべてはそこからしかはじまらない。まわりに何もないから、自由に無の世界で意識を働かせることができる。
自然界が動きを止めた特典を人だけは大きく享受することができるわけだ。
こうした天が与えてくれた時期を人は無駄にしては損。自然界が動きを止めるのは、人間に遠慮してのものかもしれない。まさに人間に与えられた時間が冬至から立春の時間。
人のみが動ける、、、それは自由な意識の働きであり、自由な想念の働きであり、、、あなただけではない、自然界が人間にそれを託し、応援してくれる。
鎮まりかえる雪に埋もれたブナの森は、人に何かをゆだねているように感じられる。勢いのある初夏の森は人など関係なしに木々も葉も伸びていくが、鎮まりかえる冬の森は、とっても人にあたたかい。
こんな素敵な時に、人が金勘定で、戦争の算段で、英知を振り絞るほど落ちぶれてはしまったが、個々の自由な意識の可能性はまだまだ残されている。
何を得たか、、、も大事だが、それはすでに過去の結果であり、さらに重要なのは、今、何を思うか、、今何を考えるか、、今、何を計画するか、、、、
天がそれにエネルギーを注ぐ時期が冬至から始まる。