幸福と幸福感
みなさんは幸福感を抱いているでしょうか。まあ、一応自分は幸福だ、、、と思っている人は多いと思います。
幸福かそうでないかは、人と比べるものではありませんし、自分にしかわからないものでしょう。
本来、幸福には、幸福感がともなわければおかしいと思うのです。
しかし、多くの人は、まあ、自分は健康だし、経済的にも豊かとまではいかないがそれなりに暮らしていける、、学校も恥ずかしくない学校を出てるし、、、、というように考えがちです。
要するに一般論。幸福か不幸かがそうした一般論で決められるものでしょうか。あまり関係ないと思うのです。
普通に暮らせる幸福は確かに大きいと思いますが、だからと言って、幸福と言えるのでしょうか。
幸福感が伴わない幸福なんかあるのでしょうか。
朝起きたとき、生きていることを嬉しく感じる、、、
風が顔を吹き抜けていくとき、ああと喜びをいだく、、
道端の花が微笑んでいるように感じて嬉しくなる、、、
本当に幸福な人とは、そうした幸福感をもっていると思うのです。もちろん、急いでいるときに、ああ素晴らしい朝だ、、、なんて感動する人は少ないでしょうが、どこかしらにそうした幸福感を持つのと持たないのとでは、大きな違いがあると思うのです。
どんなにお金持ちになっても、どんなに周囲から称賛を浴びても、一時の昂揚感はあるでしょうが、持続する幸福感には結び付きません。
将来の夢がさも大事だと言わんばかりにマスコミはたきつけますが、本当にそんなに大事なのでしょうか。未来の夢の達成が目的になると、今が粗末に扱われます。
夢のために我慢するのが当たり前、、、となってしまう。それにだまされて一生を終えていってしまった人もいるような気がする。ひどいだましだと思います。
幸福は現在の状況と未来の手応えと深く関係しますが、幸福感はどこにも、何にも関係しない、ただ幸福感を抱く、ただ幸せを感じる、、、という今の現象です。
将来の夢イコール、今は歯をくいしばってがまんし、、、、そうやって夢の東大に入った人も大勢いると思います。
それはそれで確かに意味はあるし、何より、社会が過大に評価してくれるので、得ではあるかもしれません。しかしそれを真に受けてしまうと、昂揚感はあっても幸福感はおいてきぼりにされてしまうことでしょう。
昂揚感は自分と他を分けて、抜きんでる喜びです。幸福感は必ず、対象と何等かの融合をした際にもたらされる満足感です。
なので、昂揚感はもっともっとの方向性を持ち、幸福感はその場その時のおける充足を意味します。
はたして、現代はどちらを大切としているでしょうか。
幸福感を忘れて突き進む現代人には、はたして幸福などやってくるのでしょうか。
人と、自然と、時間と、状況と、音と、色と、香りと、、交合することでもたらされる喜びと満足は、常に今という時間軸の中にあります。
現代人の何が不幸かというと、今というときを意味ないものにしてしまったことにあるのです。徳洲会の問題が騒がれていますが、徳田会長は偉い人であったといいます。確かに病院経営においては、本当に偉かった気がします。かなりの人格者の面もあったようです。
マスコミが言うことなど付け焼刃の意図があってのものなので、あたかも徳田氏が悪人のように言われますが、本当のことは私たちにはよくわかりません。
ただ気になるのは、ものすごく合理的な考えをする面があったらしく、信号で車が停まりそうになると、後ろから運転手さんの頭をお茶のカンで殴ったということもあったとか。それがもし本当なら、ああ、夢を追っていた人なんだな、、と。夢は未来に属しますから、今の意味を薄めてしまうのです。
意味あること以外意味ないという感覚に立ち至ります。金さえ儲ければ、、、出世さえできれば、、、あの学校にさえ入れれば、、、現代の問題の根本には、こうした考えがあり、意味あるもの、意味ある時間とそうでないものとに、人は分けてしまうのです。
得するもの、、、そうでないもの、、、儲かるもの、、そうでないもの、、、よいもの、、、わるいもの、、、
その代償は幸福感の喪失。
不幸とは今と離れた考え、立場、意思、防衛、から訪れるのです。先々の不安をカバーするために万全の備えをするのは、とても大事ですが、それは今という立脚に立っている場合のみ有効であって、いたずらに未来への不安から行動すると、大体はうまくいかず、墓穴を掘ることになりがちです。
若い時期からお金をためて堅実に過ごせば、確かに老後の心配は多少は少なくなるでしょう。しかし自分の人生がそういう防衛的態度によるものばかりになったとき、私達は、人生はやはり厳しい、、常に用心しなくては、という気持ちをむしろ高めてしまいます。
そして死ぬまで用心し通しで実際に死んじゃう人もいるわけです。一体何のために生まれてきたのか、、、しかし本人にとってはそんなことはどうでもいいのです。とにかく不安になりたくない、、
準備をするほど、用心深くするほど、守りをするほど、、本当は不安になっているのに。
もちろん準備や用心は必要だと思います。しかし、それは有意義に楽しく生きるために必要なのであって、不安を安心させるために行うのとは異なるのです。
有意義に楽しく生きるために、不測の事態に備える準備は、今の喜びを消すものではありません。しかもある程度の限界を知っています。
しかし不安から始める人には限度がないのです。なので、富の集中が起こったり、武器の増産が起きたり、という状況を招いてしまうのです。
不安から動く人には周囲は見えませんから、周囲はどうしても巻き添えを食います。国も同様で、国民は国家の巻き添えを食い始めているようにどの国もなっているようです。不安だから国は秘密にしたい、国民は国の不安のために巻き添えを食いつつあります。
国家は防衛のために莫大な武器に金を惜しみません。そのために民が苦しくなっても、民の貧には関心がないのです。
守りに心を奪われたものほど怖いものはありません。
そして必ず、そうした行動からは幸福感は消えていきます。一見幸福に見える社会でも幸福に見える文化にも、幸福感はだんだんと消えていくのです。
いつの間にか、お茶の間ので見るテレビのお笑いの番組からも、そこで笑うことはあっても幸福感は見えてきません。
幸福感はでは何によって得られるのでしょうか。ひとつは言ってきたように、今という場に立脚した交合です。
友と、人と、自然と、今、何かを共有し、交合した際に出てくる感情は幸福感です。
そしてそこには、方式があります。今とつながる唯一の方式はゆっくり行うことなのです。
これによって副交感神経が働きます。副交感神経と幸福感には深い関係があります。しかしこれも働き過ぎると幸福感は消えていきます。バランスです。
人には夢があり、未来があります。先ほどはそれを否定しましたが、確かに大事な要素です。しかしそのために今を捨ててはいけないということなのです。
夢と未来に不安からではない健全な意識を向け、今に立脚する。それが、ちゃんとした意識を持ちつつ、ゆっくり行うことになるのです。
そして幸福感がもたらされれば、それはうまくすすんでいるよ、、との神のシグナルをもらえたことだと言えるでしょう。