恋心
きょうから師走。1日は愛子内親王様のお誕生日でもあります。愛子様がお生まれになる直前に、ある知人が愛先生と似ている名前になる、、、と、謎めいた発言をしたことを思い出しました。
確かに愛の文字が入っていたので、そうかな、、と思ったのですが、今考えてみると、子というのは、現代では女性の名前につけるわけで、私のマドモアゼルと意味は同じ。愛+女性名詞の冠ということで、恐れ多いことに確かに知人の予感は当たっていたことになるわけです。
だから何だということは何もないのですが、知人がなんでそんな風に直感したのか、その根拠をいずれ聞いてみたいと思います。
愛子様は小学校六年生でもう来年には中学生となられます。本当に早いですね。お健やかにご成長されますよう心から祈念申し上げます。
私は皇室とはまったく何の関係ももちろんありませんが、披講という和歌を歌う会を立ち上げて学んでいるため、自然と関心が向くことがあるのかもしれません。
披講の練習曲は君が代と決まっており、これを何回も何回も歌って覚えるのです。覚えた後も、とにかく君が代を歌うことで学んでいくわけです。
披講する際には、独特の静けさと静寂の中から歌を詠みあげる人が発声するのですが、それはまるで宇宙開闢の闇の中から、初めて音が出てくるような鮮烈さと同時に緊張感があります。
先日、女子空手の型を見ていて本当に驚きました。披講と似ているのです。空手は武道ですし、披講は音楽ですが、緊張感、静寂、そこから現れる動作、声、、、その一つ一つが私にはまったく同じところから出ているように感じられ、生まれて初めて見た女子空手の型に、まったく違和感をおぼえませんでした。
空手は世界で大変な人気ですが、女子空手の型の選手には、すごい美人が多いようです。単に美人のみならず、あの武道の型を決めるのですから、それは世界の人々は熱狂します。イタリア人もフランス人も、大喜びしているのが画面越しに伝わりました。
本当に日本の型の美は特別で魅力があります。
魅力の源泉は何か、、、勝手な意見ですが、私はそれを恋心であるように感じました。
闇から光が飛び出す、、、静寂から音が発声していく、、無と有との共演の姿が空手にも披講にもみられるのですが、無と有の交合はまるで恋心みたいに感じられるのです。
生きているもの、、、存在しているものから、恋心がなくなれば、共演も交合もないわけで、一面的な存在でしかなく、それは時間と共に劣化し出す運命から逃れられなくなります。
80歳を超えても、90歳を超えても、どこか生き生きしている状態というのは、恋心を持つかどうかで決まると言ってもよい気がします。
異性への恋心はもちろん上等で素晴らしいですが、そうではなくても、風や海や音や光や道や緑や高原や香りや、、、色々なものとの交流、共演を人はできるわけで、そこに恋の情感が漂うかどうか、、、
信仰も高度になると恋している状態と同じだと言います。確かにそうなんでしょうね。説教を聞くにしても、神に恋しているように話す牧師の話しの方が私は聞きたいです。教義の話しになったらおそらく眠ってしまうでしょう。
私が老人になったら、ほとんどもうそうだけど、ただ無表情に食べ物を口に運ぶようにはなりたくないと、そんな気がします。
日本の文化の根底にある型には、無と有との交合、交流があり、静寂と発声、静と動が見事です。静寂の中から音が生じ、音は静寂に戻り、静から動が生じ、動は静に戻っていく、、、そして変化は気配によってつながる。
気配は質量をもたない物差しであり、無と有を行き来する。要するに恋なのです。
恋から気配が消えたらそれは恋ではありません。気配で感じ取ることで両者は交流しているわけで、説明の中身も大事でしょうが、決定権は気配の交流が決めている。
恋心を持つことで、私たちは永遠の虚と永遠の実とを行き交う存在になれるのです。
なので、色っぽくないことには、本質的なものは何ひとつありません。
ルール、時間の制約、保険、チェーン店、コンビニ、、無を忘れた文化には色気などあるわけもなく、命もみじかいはずで変わり目が近いのでは。