特別という誘惑

私の年齢にもなるとこれまでにいろいろな人と会い、いろいろな人生を見てきた。

そして思うのは、何ひとつ特別な才能がなく、何ひとつ秀でたものを持たない人は、不思議と恵まれて満足して生きていられるということだった。

こういうと多くの人は、自分には才能なんかない、、でも不満ばかり、、、というだろう。

果たしてそうだろうか。自分に不満ばかり感じる人は、心のどこかに、本当は優越感を持ってはいないか。

人間社会的価値の意味において何ひとつとりえのない人は、実は神々しくなる。神々しく見えるものだ。

知恵遅れや障害者の方々には、特別な才能を持つ人が多いが、重度になるに従い、一般の人間社会的な意味でのとりえというか、才能はあまり見られなくなる。それは仕方ない面がある。

だから生きていくことが不利にならないようにと、国は福祉に力を入れ、障害のある方々を守ろうとする。それは必要なことであり、これからも絶対に力を入れなくてはならないことである。

しかしそのことは別にして、何のとりえも才能もないとなると、自分を売り物にしなくてすむ。存在自体の価値において純粋なものとなる。なので、神々しい存在となってくるのだ。

なので、障害のある方や才能のない者に対して、冷たく、合理的な形でしか考えられない人は、重大な間違いを犯している。

知を優先させる価値観はいつかこの間違いを犯す。そして命から離れたところで自分自身の人生を構築し、失敗していくことになる。

障害者や知恵遅れの人に対する冷たさは、命の蔑視であり、必ず自分に戻ってくる。

智慧ある時代においては、障害のある人や知恵の遅れた人は、神の子として特別な存在として大切にされる。

昔、頭のよい知人がいた。仕事もよくできた。彼は成功して大変なお金持ちになった。それは文句なしにすばらしいことだ。私もあやかりたいと素直に思う。

ただ知人は成功していくにつれて自分を特別視していった。大変な成功であるし、何百億の資産を作ったのだから、特別な才能があったことは間違いないと思う。

ただ特別視はどうだろう。運がいいとか、時代があっていたとか、環境に恵まれたとか、偶然の恵み、、という面もあったと思うのだ。

しかし知人は成功していくにつれ、自分を特別視し、この世には、支配されるしかない人と、支配してもいい人がいると、まじめに私に語ったのだ。

金持ちになったくらいで、人を支配していいなどと、なぜそんなことが思えるのか不思議だった。

そしてわかってきたのは、成功し、金持ちになり、権威や権力を持つに従い、成功者の特別なグループに招かれたり、特別な誘惑がたくさんやってくるらしいのだ。

そうして特別扱いされていくうちに、自分は特別だと、思うようになっていく。知人の変容もそれだった。

神の前で、こざかしい才能やちょっぴりばかし秀でた才能など、どれだけのものだろう。

私たちは特別という誘惑に確かに弱いが、特別である以前にひとつの時代、ひとつの世界、ひとつの命をともに生きているという事実から離れてはならない。

そのもっとも重要なことを人に教え、導き、特別という誘惑から私たちを守ってくれるのが、命の輝き、命の働き、命の手ごたえなのだ。

障害のある人のように、この世的な価値をつくらない存在こそが、命の本質を美しく開花させている。時代が、人が彼らに冷たく当たるとき、私たちの世界は崩れ去っていくのだ。

ナチスも障害者に冷たくあたった。優生学という馬鹿げたいんちき学問によって。

東大、官僚、大企業、、、、力を持つ多くの者が知に頼り、命を失った時代。彼らが本当の意味で知恵遅れの人に神を見出すまで、彼らの試練は続くことになる。

知に頼る私たちの時代も同様である。