日常の宝物
宝ものはどこにあるか、、そう問われて人はそれぞれに答えを出すと思う。
しかし、大きな悩みや悲しみを背負った人なら、日常の普通の暮らしが本当の宝物であると答えるのではないか。
昔、出版社の重役からたまにマージャンを誘われた。マージャンというゲームは今はあまり人気がないが、やりだすと結構な時間がかかる。
あっという間に3時間、4時間がたってしまう。その長い時間の合間には、色々な話しやぼやきが出てくる。
出版社の重役はすでに60歳を超えており、周辺でお亡くなりになる方も多くなる。友人があるとき、臨終の場でこう語ったと重役は言い出した。
「仕事が終えて、マージャンに行く、、、負けた、勝った、、ああ疲れた、、ということが、本当にどんなにか幸福なことなんだぞ」と病床で重役に語ったというのだ。
おそらく遊び友達だったのだろう。
マージャンはともかく、朝の新聞の匂い、、コーヒー、、パンの焼ける匂い、、、
それらは単なる日常の一こまだが、それがどんなに大きな宝物であるか、アウシュビッツで暮らした人の手記に確かあったような気がする。
愛する人がただそこにいる、、、ただ過ぎ去る日々の日常の光景、、、それがどんなに大事なものか、人はなかなかそのときは気づけない。
そしていとも簡単に、私たちはこうした日常の宝物を目新しいものと変えてしまう。
夢は大切だというが、本当にそうだろうか。夢をおいかけ、日常を捨てて金持ちになろうと有名になろうと、自己の栄光化などは日常の宝物に及ぶべくもないだろう。
夢をけしかけ、人類を動かしたのは、コマーシャルリズムであり、マスコミは必ず夢が大切と言い出す。
しかし人を元気にさせるのは、日常なのだ。そして人はそれを失ってみるまで気が付かない。
体重が増えたと悩み、、、金が足りないと心配し、、成績が上がらないと失意を抱き、、、お腹が痛いと薬を飲み、、、
そうした日常の営みすらアウシュビッツの中では本当の夢のような生活だったと思うことだろう。
宝物とは、それは、毎日寝ているあなたの布団であり、毎日座っているゆったり椅子の時間であり、縁側であり、日常のそれとはなしに過ぎ去る光景や音や時間なのだ。
だから誰でも本当は宝物を持っている。その原点を忘れさせるのは、欲や自己栄光化を目指す気持ち。
より高度な幸福、、、より高度な自分、、、確かにそうしたものはあるし、必要であることも事実だと思う。ただそれは日常の犠牲の中では本当は育たない。
出世してキンキラのベッドに寝、、、豪華な食事の毎晩、、一着何十万もする服を着る日々、、、
それらに本当の幸福を見出すのは、子供の頃から、また生れ落ちた時からそうした環境で育った人だけであり、私たちはそうではない。
いや、生まれつきの王侯貴族でさえ、それらの豪華なものが階級の差別感からきている匂いを感じたとしたら、人類の不偏の感性が冷たいものとしてそれらを受け取り、日常の宝物とはなりえないと思う。
王侯貴族は日常の宝物を知らない可能性がある。
大きな価値の転倒の世界に私たちは生きていることになるだろう。
もっとも価値のある布団はあなたが使用しているせんべい布団であり、(もう少しはよいと思いますが)汚れたベッドルームであり、使いふるされたキッチンであり、そういうものなのだ。
だから誤解した夢にまどわされていない人は、すべて王侯貴族以上の宝物を持っていることになる。
転倒の世界の中でもっとも悲惨なのは、夢のために愛する人と別れることかもしれないし、夢のために家族と離れることであるかもしれないし、本当の宝物だったせんべい布団を新しいと思われる価値の前であっさり捨て去ることである。
こうして地球は破壊され、自然は壊されてきた。人類の夢のために。
そろそろ私たちは転倒した世界であることを知り、選択基準を変更していかねば、幸福をつかめない時代になったような気がする。