禅の茶話会顛末記

31日の日曜日に行われた禅の茶話会について、ブログでも不安を述べましたが、その顛末をまだお知らせしてませんでしたのでご報告を。

結論から言いますと、関係者の温かなご配慮でどうにかお役を果たしてきました。

日暮里から谷中方面に歩いていくとたくぼく道場があり、ちょうど春の花が咲き乱れてとてもきれいな道。右手には谷中の墓地があり、一層風情をかきたてます。

こんなところに書斎があったらいいな、、、と思った場所に道場はありました。たくぼく道場は山岡鉄舟などが作った禅の道場とか。歴史があるのです。

入ると控えの間に通され、座布団がしかれており、どうぞどうぞと進められるのですが、よく見ると一枚の座布団の上にもう一枚座布団がたたまれて置かれている。

一体どのようにして座ったらいいものかがわからない。
他の人は座布団に座らずに直接たたみにお座りになっているので、私だけが座布団をいただいたことになるのだが、座り方がわからない。

外が寒かったので、たたんである座布団をひざに置いて、お布団のようにすればいいのだろう、、、と思った私は、たたんだ座布団を横に置き、下の座布団にとりあえず座る。

正座は厳しいのでかわいらしく横座り。そしてもう一枚の座布団をひざに置こうと手探りしていたとき、腰の下にそのままお座りになればよろしいのですよ、、、と説明された。

なんだ、寒いときのお布団用ではなかったのだと知る。

はははは、、、などと意味不明の笑いをうかべ、ともかく関係者に挨拶。

スタートから波乱を予感させる展開だったが、温かな関係者のみなさんの応対で安堵。

そして時間となり道場に向かうとすでに100名ほどの参加者がお座りになっていて私を迎えてくれた。温かな拍手。

私の話しがメインではあるものの、すべて司会者に一任して進行も話しの内容もお任せにしてたので、私としては非常に気が楽。

尋ねられたことを答えていればいいのだから、司会者は大変ですがこちらは非常に楽でした。

しかも一番心配していた席が座布団ではなく、椅子だったので極めて楽ちん。

このときの話しの模様はすべて禅フロンティアさんのサービスであとでネットで見れるということです。

けっこう時間が延びて、おそらく2時間半くらいの話になったと思います。

最初は話しがメインでしたが、段々と実践に移り、参加者全員での母音トーニング。

禅僧の方も大勢いましたが、ここは普段と違って、体をゆすって声を出す、、、というやり方をやったところ、さすがに凄い大音量がこだまし、とても気持ちよかったです。

心配なのは、不動の禅に対して体をゆすって出す母音発声、、、後の修業に変な癖がでてはしまわないかと、ちょっぴり心配も。

しかし終わったあとで、色々な坊さんがいらしてくださり、とてもよかったと喜ばれていたので、大丈夫でしょう。

その後座禅となったのですが、そこで見たのが、来た時に用意されていたあの二枚かさねの座布団の行列。あれは座禅用のスタイルであることがこのときわかったのでした。

とはいえ、私が座るとなんだかふらふらと決まらない。見かねたお坊様が、もう一枚増やしましょう、、、と言ってくれるが、今度はひとりだけスカイツリーになったような感じで非常に見苦しい。

お坊様もこれは厳しいと悟られ、椅子をお持ちしましょう、、、ということに。100名もいる一番前のほうで、私だけが椅子に座って座禅するという何だか偉そうなスタイル。ほんとにいいのかしらと思いつつ、甘えさせていただきました。

瞑想に入ると時折チンと鐘が鳴る。すると叩き棒を持った禅僧がすたすたと歩きだす。こっちに来る、、、やられるのか、、というような不安がよぎったりするのだが、何とか大丈夫でした。

またチンと鐘がなる、、、そのたびに動きがあり、人が出入りしている、、、まるで歌舞伎を見ているような臨場感。

ただ瞑想してるのではなくて、色々なしきたりや形式があり、それがとても美しい。

関心しながら薄目で眺めていると、チンの鐘の後で、私を呼びに来たご担当の禅僧様が、私に起立を促す。

えっ、何、私が立ってどこかに連れて行かれるの、、えっ、死刑執行なの、、とドット不安が突然ピーク状態に。

仕方ないのであきらめ、手を合わせて付いていくと、老師が待つお部屋へと連れて行かれる雰囲気が伝わってくる。

これは大変なことになったと私。まさか、恐れていた例の禅問答というか、もしや考案なのか、、、

連れて行かれた部屋には老師がお座りになっていて、どうぞこちらへと、お招き。ご遠慮できるムードはないし、今さらトイレもない。

まな板の鯉的な心境で進み出る私。すると老師から考案のご説明を受け、考案第一問が出題されたのだ。

「汝の面目如何」確か正確には忘れたが、というようなことだった。このとき、答えはわからないが、通常の理知的な意識で何を答えても見破られるのだ。

最初の考案は、恐怖突入のようなものだと老師みずからおっしゃる。通常の頼りにしていた智や意識を捨て、リアルな自身から出る言葉以外は答えにならない世界をつきつけられるのだ。

これが考案の第一問。すべてここから考案はスタートするらしい。詳しくは知らないが、そのような感じだった。間違ってお聞きしているかもしれないが、そうなると、禅には一種のスタイルというか、悟りへと導く形式があるのだろう。

これなら海外も受け入れることだろうと思った。命があるものには、形式があるとよいのだ。形式をつくることが愛にすらなる。

命ないものに形式をつくれば詐欺だが、これは凄いシステムだと思った。

ただそんなことに関心していては考案に答えられないので、自分が一番苦しかったときのことを思い出して、
そのときの一歩が本当の自分の力による一歩でした、、、なんてしおらしく言ったら、そうですね、、と受け取ってもらえました。

どうにか戻ることができてまた座禅に参加。そんな貴重な45分だった。

その後、楽しみにしていた茶話会で、ちょっと時間が押してしまって短い時間でしたが楽しむことができました。

最後に何か、、という流れになったので、では自分のもっとも苦しい声、いやな声を出して閉めましょう。

すると出るわ出るわ、、、もともと声量の豊富な坊様たちですから、とにかく迫力十分。老師も大笑いされておりました。

というような内容で本当に楽しかったです。禅はすごい文化ですね。笠倉様、ありがとうございました。

次は楽家十五代のお話しが上野博物館であるということで禅の世界の広さは半端ではありませんね。