小さな嘘と大きな嘘

小さな嘘と大きな嘘と、どちらがバレにくいかというと、これは断然大きな嘘がばれにくい。

「私の身長は160センチ、、、」「うそ、あるわけないわね、、」と、こうした嘘はすぐにバレてしまう。

しかし大きな嘘はそうでもなく、仕掛けさえ完璧ならいとも簡単に嘘を突き通すことができる。

昔、共産圏と資本主義とが対立していたとき、共産主義国では資本主義の悪い点について語り、そのことを国民に信じさせてきた。そして嘘がばれたとき、ソ連は崩壊した。

共産主義の悪い面については、これはご存知のように資本主義社会では当然のごとく批判されてきた。

どちらもマスコミの果たした役割が大きかったわけで、マスコミは大きな嘘をつくために存在しているといっていいだろう。

しかし、嘘は何かと便利かもしれないが、嘘からはエネルギーがやってこない。嘘とは事実でないことなのだから、架空なのだ。架空からやってくるのは、実はエネルギーの喪失であり、幽界エネルギーへ私たちの生命力が逆に流れていくことを意味する。

なので嘘で塗り固められた世界というのは、われわれのエネルギーを奪う装置として存在するわけなのだ。

フリーエネルギーとこのことは深い関係がある。私たちは何気にテレビや人工音を聞いているが、それが私たちのエネルギーを巧みに奪い取る装置であるとしたら恐いことではないか。

どんなに大好きな曲であっても、CDが終わり、装置のスイッチを切ったときに訪れるほっとした安心感を体験したことは誰にもあると思う。

フリーエネルギーは無からエネルギーを圧力差を利用して取り込むが、逆に圧力差を利用すればすでにあるエネルギー体からエネルギーが放出されることにもつながる。

都市化、人口構造物化、人工音には、どうしてもこのような構造がある。近代化とは、一言で言うと、吸血鬼が人間のエネルギーを奪いとるためにできた装置であるとも言える。だから悲しい出来事が多くなる。

(こういうと、昔はもっとひどかった、、、という考えが必ず出てくるが、説明は他日に回します)

それでもどうにか私たちが元気で生きていられるのは、どこからか無尽蔵のエネルギーを得るフリーエネルギー自然体をしているからだ。

体の中では元素転換が起き、個の意識は大きな意識とつながり、耳は聞こえない宇宙の音を聞いている。意識できなくても。

だから私たちは生きられる。枯渇しないで居られる。それは、朝食べたコンビニおにぎりのおかげではない。コンビニおにぎりを食べなかったほうが、むしろ元気で居られたかもしれない。

体調が悪いときに、心がある程度でもこもったものを食べることで、俄然体調が元に戻り、元気を取り戻すことがある。コンビニ弁当やファストフードでそういうことが一度でもあっただろうか。(誰かの温かい思いやりからいただいたコンビニ弁当なら、元気は出てくるケースは多い)

コンビニ弁当がが悪いといっているわけではないけど、元気の元とはちょっと違う、、、という感覚は誰にもあると思う。

その感覚が実はかなり重要なのだ。そこにこそ、命につながる方向と嘘の世界につながる方向性が分かれるからだ。

嘘につながる方向はエネルギーを奪うシステムであり、おそらく人工的にしかも意図的に作られている可能性が高い。

周囲がいうままに、常識のままに、皆が信じていることを鵜呑みにして生きていけば、必ず、事実の壁にぶち当たる。その際に、人は大変素直に出来ているから、自分がおかしいという考えと態度に出てしまう。

孤独を恐れるためにそうしてしまうのだ。そして事実の道をゆがめ、嘘の世界にエネルギーを奉仕する存在に変えられていく。要するに奴隷化である。

なので、現代人は非常に疲れているのである。しかしこの世が嘘で固められていると気づき、自分の勝手で生きることを決意した人は大体は元気になっていく。

ところで嘘にも二通りある。人間がついた嘘などは実は可愛いもので、時代の変化や状況の変化で大きな嘘もやがてばれてしまう。

教会は免罪符まで出して金集めをしたわけだが、さすがに免罪符は今では通用すまい。同類のものはまだあると思うが。

都市信仰、科学信仰、お金信仰などは、一種の免罪符機能の延長といえるだろう。しかしそんなものは、せいぜいあと何十年もすればかなり違ったものとして私たちの目に映りだすはず。

恐いのはもっと大きな嘘であり、体の中の遺伝子情報に組み込まれた嘘。

チベットの死者の書によれば、冒頭の有名な部分だが「人は泣きながら生まれてくる、、、」それは悲しみの世界に生まれてきたからだというようなことが書かれている。

そして「人は周囲が悲しみの中で死んでいく、、」というようなことが書かれている。だが本当は喜びの世界に戻っていく、、、というような確か書き出しだったと思う。もう数十年前に読んだので、記憶はおぼろだが、確かそんな感じで始まっていた。

これが本当なら凄い嘘だと思う。人間が付く嘘など可愛いレベルだ。要するに死者の書は嘘がまかり通る世界に人は生まれてくると、教えているようなものである。

ならばすべてが逆になる。確かに人は幸福を求めている。しかし幸福に至る人は少ない。

人は金儲けに熱心である。しかしそれに成功する人は少ない。

人は自分だけを大切にしたいと思っている。しかし自分だけが不幸に思えるようなことになる。

人は健康になりたいと思っている。しかし健康法のほとんどで失敗してしまう。

人は美しくなりたいと思っている。しかし必ず老いていき、老醜をさらす。

人は人は人は、、、といっぱいある。

逆にこういうことも言える。

人は幸福になることをあきらめた。すると見えてきたものがあった、、、

人は金を追うことをあきらめた。すると金が追いかけてきた、、、

人は孤独を覚悟した。すると孤独でなくなった、、、

人は恐怖を受け入れた。すると喜びが沸いてきた、、

神経症の病理と私は昔から縁があり、その方面の著作も多いのだが、一言で言うなら、私たちの住む世界は転倒しているということであり、嘘の世界に生まれている。

ただその嘘の世界にも道理はあり、嘘の中から真実を捉えていくという極めて逆説的な世界に生まれてしまったのだ。

そのこと自体はどうにもならない運命である。悲しい運命とも言えるが、逆説がわからないと両方の理解に達しないわけだから、この世は厳しいながら、非常に慈悲の構造をしていることになる。

イエスは153匹のペテロの網の出来事により、本当はすべての人を救うことを示している。最終的にはすべての人は救われるのだが、それでは手柄が少ないとおもって三分の一の153を持ち出したのでしょう。

しかし153の中には、1+2+3+、、、+17=153となり、7+10ですべての人、、の意味が出てくる。ここらへんは説明すると長くなるのでまたの機会にまわしますが、153については、528Hzの周波数のこれまでの説明の中にもあります。

153という数字には、三分の一の手柄と、全員救済の意味が込められているので、本当は安心していいのだが、手柄を立てさせるために、ともかく私たちは嘘が優位になるようになっている世界に生まれてきたということになる。逆説的不幸という愛の構造をしているのだ。

しかしそれもときいたり、フリーエネルギーの時代が見えてきたので、うそはばれてしまうでしょう。