無理と道理
スポーツ界のしごきなどが問題になっている。新しいスポーツが流行すればすぐに大きなマーケットが誕生するので経済的な可能性も出てくる。
東京マラソンでは3万人が走ったというが、応募者はその10倍はいたと思う。40キロ以上を走るそれなりの自信がある人が最低でも30万人はいるというは大変なことだ。
その30万人を支えるさらに20倍、30倍の人がいるかもしれないから、マラソン人口はかなり多い。それらの人が着るウエア、シューズなどをあわせると、経済としても大きな市場を作っていることになる。
こちらはしごきとはあまり関係のない発展の仕方をしてきたわけだ。
会社単位、学校単位、グループ単位でマラソンをする環境は多いが、その場合でもベースとなっているのは、走りたい、、、仲間と走りたい、、という個人の意識である。
なので、自然な発展を遂げた気がする。
一方、スポーツによって立つプロ意識(アマでも)が重視されるスポーツには、無理が出てきている。
それが高校生の場合でも、学校がスポーツ一流校だとすると、実績のあるコーチや担任を呼び、成果を期待する。
監督もコーチもアマチュアスポーツとはいえ、完璧にプロである。自分の出世や評判がかかっている。
これは選手にとってはかなり厳しい環境となるだろう。単に「僕は走りたいだけです」「僕は野球がやりたいだけです」ではすまない。
本音ではとにかく勝って、この学校をもっと有名にしなくてはならない、、、と、いう動機に関係者が押されてしまう。
その駒となるのが高校生や中学生だったとしたら、ゆがんで当然だろう。
アマでなければならない学校スポーツが最高度のプロ意識によって運営されるのだから、おかしなことになっていく。
ただ野球を愛する、、、ただ走るのがすき、、、というスポーツの原点など関係なくなる。そんな者はクラブに残れない。しかもいやな思いをして追い出されることだろう。
いつからかスポーツが劣等感や出世欲を根底に置く、まるで芸能界と同じような構造やシステムを持つようになった。
一方で好きで広がるスポーツの世界があり、一方で学校や個人の栄光化のために他を犠牲にしてでも成り立たせようとするスポーツがある。
どちらに軍配が今後当たっていくかは、明白ではないだろうか。
一方は栄光化のためにとにかく無理を通す生き方を、もう一方は自己実現の方向へと進む流れ。
物事にはおおむね無理と道理とがある。その境はけっこう微妙ではあるが、基本はどちらかに属して私たちは生きている。
無理を通して出世する、、無理を通して金をためる、、、無理を通して抜きん出る、、、時にはそれも必要な場合があることはわかるが、重点がそちらサイドに傾くものは、今、大きな壁に突き当たっている。
無理を通して力の世界で成功したとしても、結局何ものこっていない、、、ということが起こり始めている。
無理を通したスポーツ界の混乱、、、無理を通した宗教世界では法王すら辞任する事態が起き、、、無理をした政治も今はまだ機能しているように見えるが、本当にそうだろうか、、、
一生懸命に生きて来て、健康を失う、、、財産を失う、、大事なものを失う、、、すると人はなんでこんなに一生懸命にやってきたのになぜ、、、と思う。
きっと無理を優先させて道理がなかったのだと思う。
無理はその場の一時的な場を支配する力はあるが、力には限界があるので、いつか破綻する。道理が生きていない生き方は、本当は危険なのだ。
とくに文化と文明がここまで発達発展すると、ひとつの結果の積み重ねがある。なので、無理と道理の切り替わるサイクルがこれまでになく早い時代が訪れる。
道理を引っ込めた生き方には、天が味方しなくなっているのだ。
無理をして押し通すものは今後どんどんつぶれ、行き詰る時代になっていく。個人でも企業でも国でも同じ。
無理な世界に自分を置くか、道理の世界に自分を置くか、まだ損得で考えている人にはわからないかもしれないが、その損得自体がすでに逆転を始めているのだ。
損して得取れではないが、目先損得計算大事では大損する時代となった。