2013年始動開始

多くの人は今日から活動のスタートかも。でも、もう7日というのだから、あっという間にお正月も過ぎてしまった。

おもちはわずか5つほどしか食べなかった。昔は何十個も食べた記憶がある。

しかし、毎年いうのですが、この時期、やはり初春というのは、どうしてもピンときません。

年賀状の変事もどうしても遅れがちで、毎年、「立春大吉」のメッセージで、立春にお返事することが多くなってしまった。

今年もそこまで引っ張ってしまう可能性が高そうです。年賀状はそれで良いとしても、年末のお歳暮のお返しもまだで、せめてそれくらいは「お年賀」に間に合わせなくては失礼。

このお正月も多忙でしたが、合間をぬって小林愛美さんのピアノの動画を見て感動していた。

あと、昔の歌謡曲を動画で色々探して楽しんだけど、つい涙が出てしまったのは、山のロザリアという、原曲はロシア民謡で、日本では大昔にスリーグレイセスが歌ってそれなりのヒットだった曲。

帰れ帰れもう一度、、、の詩が今の時代と命が輝いていた時代との対比として1番から3番まで共通に出てくる。

私の現代文明への思いと重なることで、胸が熱くなった。

進歩も素晴らしいが、本当の進歩に至るには、今の私たちは、一度、元に戻るしかない気がする。

帰れ帰れもう一度、、、命の元へ、輝きの元へ。

命の元も輝きの元も、決してなくなってなどいない。昔も今もこれからもあるものがある。それがなければ誰ひとり、本当は生きていけないのだから。

しかし、それは隠れている。隠されてしまっている、、、あたかもないかのように装飾されてしまっているが、私たちがもう一度そこに戻ろうとするなら、それはすぐに輝き出してくれる。

スクリーンに映る幻想が現実だと教えられた私たちだが、スクリーンを取り去れば、いつでもそこには命の宿る元の世界がある。

私はそれを母音によって知った。母音はいまでも呼びかけている。帰れ帰れもう一度、、、やさしかりしあの頃、、、輝いていたあの頃、、疲れてなどいない、、はちきれそうなあなたがそこにいる。

しかし、日本語にはすべての発声に母音が絡むわけだが、母音を言語に残したということは、この言葉が構造的に原初的な本来の言語であることの証拠になる。

母音の意味を理解した人ならそのことがわかるはずで、世界が、帰れ帰れもう一度、、、となる暁には、誰もが、日本語を学ぶ時代がやってくる。

こんなことを言うと頭がおかしいか、もしくはお前は右翼か、、と思われるだろうが、事実なのだからどうしようもない。

しかし、イスラエルの国歌の歌詞には、東の果てにある国がシオンでありイスラエル、、となっている。なんだか意味深。

また古代ヘブライ語は母音を省略して記していたが、実際には発声はしていたのではないか、、、と聞いたこともある。

一方で、日本沈没とか、日本人の多くは殺されたり奪われて、この列島を追い出されるというような激しい意見を聞くことも多い。

しかし日本語がある限り、大本が終えることはないと思う。世界に唯一、母音を言語にした日本語。母音が私が考えるように神ならば、人々は日本語に戻ることになる。

まあ、まだお正月だからこんな話しもお許しいただけるだろうと思って話しているのだが、私たちは本当に不思議な言語を毎日話しているのだ。

本当はこれは奇跡なのです。日本語を大事に発声しているだけで、命の根源とつながる可能性があるということ。

さらに母音トーニングすることで、命の元とつながれること。世界中の人が日本語を学ぶ時代がきっと訪れます。まあ、かなり先のことなんでしょうけど。

その前に日本はどうされちゃうかわからないけど、日本語が残っているうちは大丈夫。日本語を禁止される危険が明治にも多少あったし、戦後も実はあったわけで、本当はかなり危険ではある。これからもきっとある。

世界の上の上は日本語のこうした力を間違いなく知っているはずですから、本当の彼らの敵は実は日本語なんでしょう。

とはいえ、それが命の言語に通じる可能性がありますから、これを無くしたら、命の元が消えてしまう。なくしたら自分らも危ない。

だから乗っ取られるのです。常に日本は。これからもそうなるのでしょうが、日本語の力に目覚めれば、なんということもない。

子音言語の優位性の争いの限界がここまで来た以上、元に戻るのは母音の命の世界しかありません。日本語はみなさんが今は思いもしないような形で発展するはずです。そうでなければ終わっちゃうのですから。

さて、今年一年間の純銀タリスマンは、伊勢神宮の図柄です。何で私が伊勢神宮などの図柄をタリスマンにしたのか、、、御遷宮という年ということもあるのですが、日本語の守りという意味を表したかったからです。

伊勢神宮はアマテラス様ですから、和歌で日本を収めた天皇家と深い関係があります。また、日本の国歌になっているのは、君が代です。

この君が代は、実は和歌なのです。

きみがよは ちよにやちよに さざれいしの いはおとなりて こけのむすまで

字余りが一か所ありますが、きれいな和歌の形式です。

大昔、国家になる前は、

わがきみは ちよにやちよに さざれいしの いはおとなりて こけのむすまで

と広く一般に歌われていた縁起の良い歌だったのです。

何が縁起がいいかというと、日本語は言霊であり、とくに和歌はその力を最大にする。

なかでも、きみがよはその筆頭格。右の人だろうが左だろうが、きみがよ反対の人だろうが、それを聞き、歌うことで、人を幸福にする力がこもっている。

伊勢神宮の御遷宮の年に日本語の深い可能性に思いをはせ、その代表でもあるきみがよを、私が披講する。

そして日頃、私たちが日本語を話していることが、どんなに凄いことか、、、日ごろ日本語を話し、日本語で物を考えていることが、どんなに奇跡であるかを、感じていただけたら嬉しい。

日本語を大事に思うということは、新しい時代の扉を叩いていることなのです。

それは政治的な右とか左とかなどまったく関係のない、物理的な現実論であるところが本当にすごいのです。