夏日星へのアプローチ

中東でも極東においても、何が何でも戦争を起こしたい、、、というもうあまりに古い考えと策動が起きている。

極東といえば、日本を含むわれらが地域。こんなところで戦争などおこされたらたまらないが、力がほしい、金がほしい、、という人にとっては、戦争が起こせたら、自分らはしばらくはどこかに逃げてればいい、、、程度にしか考えていないのだろう。

本当に人間を愛せない者を、私たちが上にたて、マスコミが持ち上げているのだから、その因果も私たちに戻ってくるのは、致し方ないことなのだろうが、何の罪もない子供らがそうした悲惨な運命に巻き込まれてしまうことには、本当に耐え難いものがある。

かつての戦争においても、火の雨の中を赤ちゃんを背負いつつ逃げ惑う母の思いはどんなものであっただろう。

右も左も共産も資本も、、そんなもの、赤子の命も守れないものに、正当なものなどありはしない、、の気持ちではなかったか。

悲しいことにそのときと今では、何も変わってはいない。上はいつでも人類よりも自分らの利益のほうが大事であり、そうした政策が今なを行われている。

こうした力に対抗する方法はイデオロギーでもスローガンでも移り気な感情でもない。世の中で実際に何が行われているかの認知である。

過ぎ去りつつあるうお座時代のキーワードはわれ信ず、である。宗教、方式、金銭、それらのすべては実は信仰であった。われ信ず、、、の中で、私たちは、嘘を信じらせられてきた。

しかし、これからやってくる時代は、われ知る、、の時代である。知ってしまえば悪はおしまい。悪巧みは嘘がばれてしまったらおしまいです。

美辞麗句、スローガン、さも良いことはこれです、、、の印象付けのみがこれまでは大事で、それにだまされてきた私たち。

健康によい、こうすれば未来が幸福、、こうしないと大変、、みんながそうしてるでしょ、、、という信仰をもたされ、まんまと上のわなに仕掛けれれて来たはず。

食べ物も、服装も、学歴も、住居も、資格も、、、、みんな本気で必要だと思ったきたけど、それは果たして、本当に必要なものだったろうか、、、それらは、本当に私たちを幸福にしてくれただろうか、、、、

大勢の人がたくみに押し付けられた信仰によって、未来を方向付けられて、結局は手ごたえのないさまよいの中にいるのが現代ではないだろうか。

その挙句が、正体がばれてしまう前に、ご和算にしたり、戦争に巻き込んでぐちゃぐちゃにさせたり、経済異変を起こさせたり、、、と、最後の最後までだまされていいのだろうか。

戦争は占星術で言えば、火星があらわす。西洋占星術でも中国でもそれは同じ。日本でも火星と争いは昔から結び付けられてきたが、ひとつ、面白い話しがある。

和歌を詠む夏日星の話しが今から1500年ほど前にあるのだ。

ある晩、八島という歌詠みが歌を作ろうとしてもあまり良い歌が浮かばない、、、、そこに童子がどこからともなく現れて、私と歌を詠み競いませんか、、、、と言うのだ。

八島は怪しんだものの、子供の挑戦を退けるわけにもいかず、オーケーと。しかし童の歌はとんでもなく上手で、八島は驚くばかり。

やがて明け方となり、八島は思いあまって、「わが宿のいらかに語る声はたえたしかに名のれよもの草ども」と、問いかける。一体、お前は何者なのだと。

童は応えて「天の原南にすめる夏日星豊聡に問へよもの草とも」と歌って応える。その内容は、私は夏日星だがそのことは聖徳太子に聞いてみればわかる、、と言うのだ。

八島は童子の帰り道をひそかにつけていくが、住吉の濱で海の中に消えてしまう。八島は急いで家に帰り、さっそく聖徳太子にそのことを報告すると、「ああ、それは夏日星、そうれは火星のことだ。あの星はしばしば童子となって現れ、遊んで歩くのだよ。しかも大変歌がうまくてな、、、」と。

八島の歌のうまさも、おそらく夏日星、すなわち火星の影響があったからで、人間業を超えていたのだろうと。

この話しの意外性は、火星が和歌の星であり、その分身である童子が日本に出没していた、、、ということにある。

私はこれはシメタ話しだと実は感じている。

こういう推論はできないだろうか。火星は確かに戦争の星である。戦争とは、対立する両者が並び立たないことで怒る政治的事柄である。

ならば、対立する両者を何かによって和解させ、対立を解消させることができたら、次の発展の糸口にすらなるのではないか。

これは推論ではなく、本当にそうなると思う。そこで推論に移るが、夏日星、すなわち、火星が和歌をたしなみ、それに長けている、、、、ということは、和歌によって火星をなぐさめ、次の軸に移動させることができるという話しとして捉えれられる、、、のではないか。

和歌は文字通り、和の歌であり、対立するものを和らげ、両者共に生かす日本の伝統の最深部に当たる文化である。

夏日星はこのことを知っており、知っているどころか、夏日星が本当は和歌の星であって、歌による対立を解消させる方式を保持してる。そしてそのことがなくなったとき、仕方なく人類は戦争となっていく、、、と考えられる。

逆に言うと、和歌によって夏日星を慰めることができたなら、人類は争いから脱却できることの神話的証明になるのではないだろうか。

そこでこの夏は、私も及ばずながら、火星を慰める歌会をひそかに行うつもりだ。おそらく冷泉家やその他の神社などでも行われている七夕の星祭は、この名残であり、実は火星を慰め、争いをなくすためのものだったのではないだろうか。

冷泉家などではきっこうてんとして七夕を行うが、その意味は技芸の上達を願うものだ。技芸の上達というと、目的はささやかなものに見えるが、この夏日星の話しとの整合性を考えると、そんなことではなくなる。

技芸の上達には、もちろん和歌も含まれる。和歌こそメインと言ってもいいが、こうした技芸の上達は火星をなぐさめ、人類から争いをなくすことと直結していると考えられる。

ということは、人類が今後迎える時代はやはり私がかつてから直感しているとおり、それは文化の時代であり、文化の時代に至ることで、人類から争いがなくなることを意味しているのである。

皆様もどうか自己の生活を文化化し、芸術化し、不要な争いの連鎖を断ち切ってほしい。もうくだらない政治家や軍事や金融などに任せておくことはできない。

かといって、そうしたものと争うこともない。自己の文化化、芸術化によって、新たな時代を作り出そうではないですか。

火星を慰める歌、、、これは大変なよい歌でなくてはならないが、皇后陛下の御歌などは、その域に達せられていると思われる。そうしたすばらしい歌がたくさん出てきて、夏日星にささげられたら、この世から争いはなくなると、私は本気で信じています。もとえ、知っている、という言うべきですね。

ちなみに、皇后陛下の御歌のひとつに、

いのちあるもののかなしさそうしゅんのひかりのなかにゆすりかのまふ

蚊の命をいとおしみ、命あるものの平等を歌った権威者が他のどこにあっただろうか。

右も左もこれをわからずに天皇を語ってはいけないと思う。