時の流れ

ふと昔の歌を聞く機会があり、次から次へと昔はやった歌を聞いた。

その頃は感じなかったが、上手な歌手が多かったと改めて思った。美空ひばりは当然としても、エリチエミもかなり上手だと再認識。広田美恵子も凄いと思った。黛ジュンも、とにかくいっぱいいたが、みな上手。青山ミチなんかも。

日本がまだ前向きで成長していく流れの中でのことだととよくわかる。

 それでいて、それらの歌手の中にある、よくわからないが、その人の運命のようなもの、、、というか、これからこの歌手がどんなことを体験して、世の中の裏を知り、おそらく芸能界特有の絶望も知り、そして再び自分の歌を歌っていく、、、自分には歌しかない、、というこれからの運命の種のようなものが伝わってくる。

本当に歌が好きだったのだろう。一世を風靡したそうした歌手の生涯にも、そしてそれを聞いて育った私たちにも、時の流れは同じようにある。

若い時代はいつしか過ぎ去り、人は最終的には老いていく。

誰もが抱く時の流れは、残酷なものだろうか、それとも何なのだろう。

確かにスポットを浴びて歌を歌っていた時代には、多くの歌手たちは何もつかんでいなかったと思う。むしろそれから利用され、捨てられていく流れの中で、おそらく自分というものを考えたことだろう。

それはサラリーマン人生でも同様ではないか。元気に一生懸命働いた時代は過ぎ去り、知らぬうちに会社のお荷物になっていく流れの中でしか、私たちは自分の人生をとらえられないとしたら、悲しいことである。

時の流れの中でいつまでも自分を失わずに前を見て生きるカギはどこにあるのだろう。

人や他人に自分や自分の価値を評価させないことではないだろうか。もちろんとやかく人は他人について話したり語ったりはするが、それを間に受けないことではないか。

一世を風靡した大歌手が、こんな人気は一時のきまぐれなもので、私はいつだって自分の歌を歌うだけだよ、、、と、もし思っていたとしたら、その後にプロダクションを首になろうが、人気が落ちようが、どうということもなかったと思う。

フジコへミングのピアノには、そうした香りがする。高齢になっても社会から評価されないで来たフジコのピアノには、ある種の怒りも時々織り交ぜはするものの、一人、夜の部屋でピアノを弾くことの純粋な思いが一貫して流れている。

人を壊すのものは、そして過去の栄光と満たされぬ現在との葛藤に悩む原因も、そこにあるのだ。

人や他人や社会からの評価が自分を支えているうちは、老いの運命から私たちは逃れることはできないのだ。

昔、セールスマンの死という演劇があったが、一人のセールスマンを支えているものは、若かりし頃の華やかな成功の思いであり、その幻想であった。それは年齢と共に現実との乖離を生じ、セールスマンはそれに耐えらずずに自殺する。

悲しい現実を認めるよりも、まだアメラグの英雄として歓声を受けている競技場の思いの中で死んでいくことをセールスマンは選んだのだ。

人が生きて、納得し、満足することは、とても難しい時代に入っている。

しかし、往年の歌手の中でも、今再び、人気があろうがなかろうが、歌うことに喜びを見出している人には、不思議な安定感がある。確かにそういうものだろう。

時の流れの残酷さは確かにあるだろうが、それは栄光化する自分がある場合には、大きくなり、栄光化をみずから消し去っていくことで、現実のウエイトを重くしていく流れでは、かなり違ったものとなる。

40代でしかできないものがきっとある。50代でしかできないものがきっとある。60代でも、70代でも、
また、死に行くベッドの中でしかできない偉大な現実想像だってきっとある。

成功は時たまの神の気分の賜物でしかなく、あんまり自分とは関係ない流れでの出来事だという認識と、一度固定化された成功やイメージを自分から壊していくことで、時の流れは常に若々しくなることだろう。

若さの喪失も、老いの嘆きも不要。生涯現役で死ぬときは死ぬ以外にない、、、そのくらいの認識が、50年くらい前の日本人には、実は当たり前のようにあった。

写真は昨日出掛けに撮ったカエル。フロッグといいますので、奇跡をもたらす縁起のよい動物の代表。これまでの弱点や喪失感や無気力で自分を不要におとしめていた方のための、フロックプレゼントです。

自由に飛び跳ねてください。