大切なものはそう多くはない

物事をスムースに有効に運ぶためには、優先順位を間違えないこと、、、

豊かに生きるためには、ひとつづつきちんと終えて結果を出すこと、、、

幸福になりたいなら、付き合う人を間違えないこと、、

仕事にありつきたいなら、早く起きること、、、

 このように色々と大切なものはあるが、中でも食と命に関した智恵は必要だろう。

 私はこれまで、体に良い食べ物や悪い食べ物があるとばかり思っていたが、どうやらそうでもないことを知った。

 確かにひどい食べ物、命のない食べ物があり、逆に波動のよい食べ物、命のある食材など、体に良いものがある。これは本当のことだと思う。

 そのため、誰でもよいものは何か、悪いものは何か、、と考えるようになっていく。それはそれで仕方ないし、必要なことでもあろう。

 しかし、もっと大切なことが実はある。

それは、自分の体の中にある機能である。この機能を有効に使うのか、使わないのか、、、そちらの方が本当は重要であることに、恥ずかしながら今の歳になってから気づいた。

 誰の体の中にもある機能を使えば、本当は誰もが健康になり、正しい考え方に行きつくようになるのではないだろうか、、、と勝手にだが思っている。

 もったいつけずにそれが何であるかを言うと、それは消化機能である。消化機能は原始的で非常に本質的なものをもっている。命そのものを体現してもいることに気付いたのだ。

 体に良いものを食べることは重要だが、そんなもの、今のスーパーにあるのか、、、今の海にあるのか、、、今の畑にあるのか、、、、探せばあるのかもしれないが、生活は日々の連続である。

 いつでも体によい食材を集めることはできない。みんなある程度の中でやりくりしているわけだ。

 もちろん、無農薬の野菜、米の方がよいだろうし、水も水道水は怖くて飲めない、、、その気持ちは当然だし、私も水道水をそのまま飲む気持ちにはなれない。

 せめて浄化装置を通った水にしたいとは、一般の人の気持ちだし、またそうした方が確かに良いと思う。ただ、そのこととは別に、もっと重要なのは、消化機能の理解だ。

 ラスプーチンは毒を食べても死ななかったが、似たようなことは日常に起きている。ラスプーチンとは言わないものの、女子バレーの有名選手が、昔ラジオ番組で、私は子供のころからお菓子しか食べませんでした、、、というのを聞いたことがある。

 体に悪いお菓子や命のない食物しか食べなくても、意外に元気で健やかに暮らしている人もいる。一体なぜなのだろう。

 おそらく消化機能に原因がありはしないか。消化機能というと、単に消化するための機能、、、としかとらえないが、そうではない。

 消化機能とは、異質のものを体に取り入れ、異質なもの同士のミックスから、毒物を取り除き、それらが体に良いものへと変化させて体に取り入れる機能なのだ。

 この機能が高度に働いていれば、場合によっては毒を食べても栄養になってしまう可能性がある。

 では、消化機能にとってもっとも大事なものは何か。それは、噛むことだ。噛むと唾液が出る。

 ここが問題で、私たちは食物を食べ、それを体に取り入れるために、唾液が出ると思っている。

 本当はそうではないのではないか。食物より、大切なのは、唾液だったのではないか。

 唾液が食物と噛むことによって交わる。この時、食物という異質のものと、自分の体から出る唾液という成分が咬合し、愛し合い、融合し、新たなものへの変質するのではないか。

 おそらくそこには微生物の異様とも思える増殖などが起きているのではないか。食べ物と唾液は微生物を育てることが本当の目的なのではないか。

 そして体が求めるものは、食べ物でも、単なる自分から出た唾液でもない、外界から取り入れたものをかみ合わせ、別の微生物群として、体に取り入れたいのではないか。
 
 それは最終的に腸にて行われるのだが、腸で重要な働きをするものが、そのものずばり、微生物なのだ。それは消化吸収するために重要なのではなく、微生物自体が人間の食べ物であり、あらゆるものを発酵させ、命の物質へと変容させて、それを私たちが取り入れる。

人間とは、外界のものを、食物として取り入れ、その際に、噛みあわせ、唾液と混じり、新たな命の物質として、微生物を生じさせる命の材料として体に取り込むのだ。
 私たちの命の継続は、食べ物を消化する際に出てくる、よく食物と噛みあわせした際の唾液にこそ、託されているのではないか。

 なぜ、コアラはユーカリだけしか食べないで生きられるのか、、、パンダは笹しか食べないし。噛み砕く際に唾液と混じり、新たな命の材料として体に取り入れるので、大丈夫なのではないかしら。

 人間も同様ではないか。北に住む人もいれば、南に住む人もいる。あらゆる条件の中で、人間は暮らしてきた。これからは放射能の中で暮らしていくという凄さだが、人間の体には、おそらく何が起きても適応できる答えがあるはずである。そうでなければ、こんなに長くも生きられなかっただろう。

その際に、何がいい、あれがいい、これがいい、、ではないのではないか。あれがいい、、、これがいい、、、では、結局は欲とはならないか。食欲こそが、人間を滅ぼす、実はトリックとして機能していたのではないか。

食欲は喜びであり、誰にでもあるものだが、食欲で食べたら、私たちは死の方向へ引きずられるようになっているのではないか。

 占いの世界では、人が食べる姿を重視するものがある。占いに限らず、その人と近づきたい、、、その人と非常に重要な関係を結びたい、、、そう思った時、私たち人間はかなり以前から、共に食事する機会をつくったのではないか。それによって、その相手の人物を本当の意味で探ることができ、知ることが出来たからではないか。

 お見合いの席でも、必ず、共に食事する、、、という段階がやってくる。そこで、「おやっ、、」と思われれば、破談となることもあっただろう。

命に対する感性、人間性が食を通じて現れてしまうからである。

食欲で食べる人は、命の本質には近づけない、、、、そうした道理がきっとどこかにあるのかもしれない。日本人がはしを大切にして常に持参したのには、食と命のつながりがあることが前提になった風習だったのではないか。

 食とは、そして消化機能とは、すなわち、食物を食べることが目的だったのではなく、食物をかみ合わせることで唾液と混ぜ、新たな命の元の物質として、体に迎え入れることだったのだ。
 毎食毎食、私たちは、無意識にこうした外界を命の世界に取り入れる儀式を行っていたことになる。

 これを粗末にして、なぜ命について語れよう。

私たちも、もちろん自分も含めて、食についてもう一度、きちんと考え直す時がやってきていると思う。

食事とは、食物をとりいれるよりも、唾液を飲むことなのだ。食物と合わさった命の唾液を飲むことだとわかれば、食に対する考え方もかなり変わってくる。

菌類がなぜ炭水化物や甘いものを欲しがり、それによって増殖していくのか、、、人間の食べ物も、基本はだから炭水化物なのかもしれない。ご飯をよく噛み、それにあった副采を噛むことを邪魔しない程度に取り込む、、、それでは栄養が足りない、、、それでは偏ってしまう、、、

 そういうことはあるだろうが、人間はどんな時代もどんな環境でも、これからも生きていかねばならない。神はそうした機能を必ず、人間に与えている。そのひとつが消化機能であり、外界と和する道がここに見えてくる。噛むことで、唾液を飲むことで外界と和する道が見えてくる。それが生きることと直結している、何よりも大事なことなのだ。

こう思ったらいてもたってもいられず、ごはんとみそ汁、そしてお漬物だけで、気持ちを込めて、みんなで作り、食べる、、、、そうした会がやりたくなった。

さっそく料理教室を当たって調べています。31日に下見に行ってきて、そこが良いようでしたら、2月か3月にはそうした、命の食の会を開きたいと思います。

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