年賀状
今年もまた遅れてしまった年賀状。お年玉付き葉書きの商品発表のあとなので、なんとなくお年玉葉書きは使いずらい。「なんだ、外れた葉書きで今更送ってきてるよ、、、」と思われるし、賞味期限切れの印象も。
毎年、遅れるのが恒例になってしまったが、今年も立春大吉で行きたいと思います。まだ全員に出してませんが、立春までにはなんとか。
一年にたった一度の礼儀も欠くとは、本当に情けない話しだけど、性格だとしたら困ったものです。こうしたことをきちんとていねいに時間をかけてできる人を、昔から本当に尊敬している。
年賀状を書いていて思うのは、今年も字が下手ということだった。
字はどうすればうまくなるか、、、特別なことは不要だという。字を書く機会があるたびに、ていねいに、きちんと書くようにしていけば、40歳を過ぎたころには、誰でもうまい字になっている、、、と、歴史アナリストの新井氏の父上から伺ったことがある。
何事にも魂を入れて、その都度行うことが大事なのだろう。そう言えば、念入り、、、という言葉がある。
たとえば、念入りな化粧、、、まあ、それにだまされた男性も多いと思うが、逆に素ッピンに惹かれる男性も多い。このように力学には二通りがある。
執念、と強い思いによる力。もうひとつは、天然の自然な流れにまかせる力。最初強いのは前者であるが、やがて後者が勝ってくる。
念入りは、印象付けであり、思いを持つものの支配力がすべてである。一方、素ッピンは本人は自分の美を意識していない。自分の力を意識していない。その魅力は、周囲の発見による。
そして人は、自分が発見したもの、見出したものに実は価値を置く。なので、美の強要や思想の強要、力の強要には、心の奥で嫌悪を感じる。
時には念入りも大事だが、すべてを神にまかせる安心感ほど強いものはない。念入りな化粧で愛されても、化粧を取らねばならない時はやってくる。
素ッピンで愛された女性は、それ以上、何も必要がない。ちょっといやらしい表現だが、体だけでいいから、身ひとつで来て欲しい、、、というものである。
素ッピンとは、何も美貌や若さのことだけではない。どこか素ッピンの人は、必ず発見される。認められる。こちらが売りこまないのに、相手の方から気づいていくれるのだから、その印象は強烈で決定的である。
審査員でも面接官でも、本人が気づいていない、本人が売りこんでいない部分を、発見したとき、あらゆる不利な条件を飛び越えて、その人を選びたくなる。
何が言いたいかというと、あなたの魅力も価値も、あなたが知らないところにあるということだ。神も人も、あなたが知らない素ッピンの部分を愛している。
だから何を着よう、何を食べようと、思いわずろう必要はない、、、ということになるのだろう。どうせ厚化粧しても、きっと見破られてしまう。ならば素ッピンで生きて、素ッピンで愛されたほうが得ではないか。
どんなに厚化粧していても、気づいてない部分で愛されているのだから、安心して厚化粧を止め、自分が本当はものすごく魅力的な存在なんだ、、、と、自分ではわからないものの、そう思って暮らしていけばいい。
アザラシの赤ちゃんも、クマの赤ちゃんも、ライオンの赤ちゃんも、そして人間の赤ちゃんも、みんなそれをどこかで知っている。自分の魅力がどこにあるかはわからないけど、自分には魅力があるんだよ、、、と、自信をもっている。なので、大人に言いつける、命令する、わがままを言う。赤ちゃんはそうやって、自分の魅力で生きていく。
本当は大人も同じ。自分の売りの部分、自分の自信のある部分、、、などという血迷い事にうつつを抜かした結果、素ッピンの気づかない魅力を忘れたしまった。
そして勝手に悩んでいる。御苦労なことなのだ。
間違いなく、あなたには、あなたが気づかない魅力を持っている。それを信じることです。
自分にはこんな人にはない力がある、、、
自分にはこんな人にはない魅力がある、、、
自分にはこんな人にはない才能がある、、、
自分にはこんな人にはない、、、、があると、、、そう思うのも自由だが、その時点で動きは止まり、生命力の枯渇が始まる。
自分が完ぺきになったと思った時、間違いなく人は死にます。やるべきことも変わるべきものもなくなるので、そうなってしまうのです。それは神が求めた結果でも誰が求めた結果でもなく、自分の考えの帰結としてそうなるのです。
人生の危機とは何か、それはつくられた自分の完成を求める心理から訪れて来るのです。