森田監督逝く
おととい、市川森一さんの御通夜に参列し、市川先生が日大芸術学部出だったと知った。故郷、長崎を愛されていた市川先生だったので、大学は長崎だとばかり思っていた。日大芸術学部で思い出したのは、森田芳光監督のことだった。私は森田監督とは直接にお会いしたことはないが、ひそかにずっと気にしている人だった。というのは、森田監督と私の生年月日がまったく同じだからだ。森田監督の競馬好きは有名だが、私もそうだし、若い頃の顔つきも多少似ている気がしていた。12月に入ってから体調をくずされた、、ということだが、私も久々に倒れて、三日間寝ていた。昔、講談社の仕事をしていたときに、私の担当の方が森田監督と仕事をしていたようで、森田監督の競馬好きと、私の競馬好きをなぜか関連されて、占い師にも競馬好きがいますよと、私のことを話した、、、ということは聞いたことがある。そして、いつか一緒に競馬に、、、というところまでは話しが行ってたようだ。けっきょく、その話しはそのまま風化して立ち消えてしまったが、一度ぜひご一緒したいものだった。そのとき、担当の方から聞いた時間でホロスコープを作ってみると、確か、アセンダントがふたご座だったという記憶がある。私はさそり座で、森田監督より14時間ほど早く生まれたことになる。しかし星の配置はほとんど同じなわけで、なんだか私の体調不備もけっこう危険なものだったのかも。私がマイバースデイで活躍していた頃、森田監督の持ち馬、リアルバースデイが日本ダービーで二着に入った。バースデイがらみの一致で偶然ではあるが、私には意味深く今では感じられてしまう。お会いしたことはないが、森田監督のご冥福を心から祈ります。今年はお世話になった方が、本当にお亡くなりになり、おとといが市川先生のご葬儀、また、昨夜にはお世話になった宮司をしのぶ歌会があった。あまりに色々なことがあるので、昨晩は私がこれまで生きてきて、私の知り合いでお亡くなりになった方々を、父母をはじめ、すべての人の顔を思い出そうとして、古い記憶から始まって今現在にいたるまで一人づつ思い出した。小学校の友人は3名がなくなっており、高校では7名とかなり多い。親類や両親などすべての方々を含めても、それでも50人ほどであり、いかに今年が多かったかわかる。しかし亡くなった方々をひとりづつ思い出すことで、不思議な心の安定が得られる。それは一体何だろう。この世とあの世との違いはあるが、必ず、それらも一体となっている部分があり、全体の裏表の姿に他ならない。人間の最大の誤解は、死が終わりであり、意味がなく、つらいものという考えだと思う。それはきっと間違いだと思う。生きて天国、死んで天国。きっとそうした構造をこの世はしている。賛美歌では葬儀の際に、永世天国というジャンルの賛美歌を歌う。その中でも有名でよく歌われるのが、はるかにあおぎみる、、、から始まる、とても勇ましい歌だ。神の元に召すのだから、悲しいはずがない、、、という気持ちをあらわした歌である。勇ましい賛美歌も確かに慰めになったことがある。死をどう考えるか。少なくとも現代人の考える死は、あまりにコンビに的で、つまらない気がする。決してそんなものでなかったと、人生を愛した市川先生も森田監督もいま、そう思っておいでのことだろう。