ミスティ最終号

現在書店で発売中の雑誌ミスティは今月号で最終となります。かなり息の長い雑誌で、女性向けの占いや神秘の専門雑誌として人気がありました。私も発売当初から御世話になった雑誌です。そんなに発売部数が落ちたわけでもないのに廃刊になるのは残念ですが、時代の流れでしょうか。同出版社ではかつてマイバースデイも発刊されており、私がまだ20代の頃から書かせてもらい、それによって学び、育てていただいた面が非常に大きかったです。なぜ、無名の私ごときが一時代を築いた雑誌に登場できたかというと、不思議なご縁がありました。私がそのころ勤めていた会社がマイバースデイという雑誌にに広告を掲載することとなり、ただありきたりの広告を掲載するより、マイバースデイ編集部の人たちを占う、、、それによって占いの面白さを伝えるのがいいのではないか、、、というようなプランが通ってしまい、私がその担当になったのでした。そこでマイバースデイの編集部に伺い、メンバーの出生年月日などを聞いて占ったところ、なんでそんなによく当たるのだ、、、ということとなり、広告効果よりも編集部員が驚かれた。その後、私が会社務めを辞めたとき、マイバースデイ編集長がその時のことを思い出してくれて、星占いの記事を書いてくれませんか、、、とのお誘いとなり、私は喜んでそれに応じ、長いお付き合いとなっていったわけです。本当にどんなことが機縁となるか、これは神のみぞ知るですね。きっかけというのは、自分が考えた形では来ないもので、日ごろの日常の姿勢が大事なのです。まじめに銀行で働いているような女性銀行員には、昔は必ず、お見合いの話しが御客様から持ち込まれた、、、と聞きます。とても親切に対応してくださったので、、、と、億万長者の御母さんがぜひ息子にと、、というような話しがよくあったとか。運勢の法則も同じで、悪いこともよいことも、期待していたものからではなく、予想してなかったことから始まるケースが多い。なのでついてない時は意図しない運勢好転の法則に乗ることです。まあ、それはともかく、こうして私は占星術の道に入り、マイバースデイともミスティとも長いおつきあいをさせていただいたので、今回の廃刊は非常に残念。ミスティでは森村あこ先生と私で提案した、「母殺し」の企画が評判を呼んだことがとくに思い出されます。同企画では松村氏とも話す機会を得たことも思い出されます。またY編集長には本当によくしていただき、ありがたい限りです。雑誌の仕事は色々な横のつながりが発展することが多く、再び、なんらかの形でみなさんの力の結集がはかれ、時代に即した新形式で何かが始まって行くと思っています。ひとつの雑誌が多くの人を育てる点は凄いものがあると思います。私同様に、鏡リュウジ氏、松村氏他も、御自身の努力はもちろんのことながら、雑誌によって育てられた面も大きいものがあったと思います。ムーランルージュがロートレックを育てたように、場がどんどんなくなりつつある。場がなくなり、人は会社と家との往復になっている。どういう時間を過ごすか、、、どういう人と過ごすか、、、物を買うのも、サービスを受けるのもすでに飽きた人々に、どういう場が与えられるかが、これからのポイントになるでしょう。場作りを真剣に考え、実行する人が多く現れることで、生きづらい今の世も、段々と生きやすいものに変化してくる気がいたします。
 何かで中心になっているような人は、みんな自分の喫茶店なんかを作ると面白いのでは、、、と思う。毎晩そこに集まる、、、いつもの顔、、、新たな顔、、、そうした場を持っているのと持っていないのでは、生きる日々のつらさがまったく違ってくると思う。どんなに厳しい日々の中にあっても、毎晩そこに行けば、キャンプファイヤが燃やされ、火を囲んで酒を飲み、歌を歌い、、踊りがある、、、可愛いあの娘もたまに踊っている、、それを見ているだけで、そこにいるだけで、人生の悩みも何もかもすべてが吹っ飛んでしまう、、人生ってそんなところからスタートすべきなのではないかしらと思う。若者はそこから巣立ち、毎晩そんなことやってる暇ないよ、、、と抜け出す者も多いのは当然。しかしそこから巣立ったことが大事なのだ。いつも毎晩、おらの田舎ではキャンプファイヤが燃やされ、今もどこかの娘が踊っているよ、、、酒飲んでるよ、、、和気あいあいとやってるよ、、、というものがあれば、犯罪など起こらない。東京でくやしいとき、限界を感じた時、ショックを受けた時、、、また人はそこに戻り、子供の時と同じように、青年の時と同じように、酒を飲み、踊り子にいやらしい目線を送り、仲間に出会う、、、そんなたわいもないが戻る場がいつもある。それが本当の安定ではないか。なぜ、小学校は廃校になったり合理的な都合によって、廃止にされたりするのか。いつでも自分の小学校がある、、、いつでもやさしい先生がいる、、、いつでも先輩を受け入れてくれる、、、魔がさしたヤケになった者も、小学校の前を通ることではっと自分に戻る。あのころのの自分に戻る。だから、小学校は合理的理由だけで閉じたり、廃校にしたり、校歌をないものにしたりしてはいけないのだ。本当なら、小学校では毎日、卒業生がいつ来てもよい部屋ないし、催しを続けていてもいいくらいの場なのだ。いつも校歌を歌える、、、先輩が来たら、必ず、みんなで一緒に校歌を歌ってあげる、、、そんな気持ちと場が提供されるだけで、凶悪犯のいくつかはなくなっていくかもしれない。たわいないことで防げる悲劇を現代は無数に作りだしている。場がないからだ。帰るべき子宮がないのだよ。頭でっかちばかり。その価値感ばかり。そしてみんなが損をしていく。