昨日の続き
不良債権のファイナルの購入者とは、形の上では国家ですが、実質はそのお金を出すところの国民になる。結局、国は一部のエリートや銀行を助け、そのための政策を行い、最後にはそれをチャラにして国民にそのツケを押し付ける。事実はこの通りであって、これに反論をはさむ余地などなし。アメリカも日本もやってきたことをきちんと説明すればそうなる。しかしそうしたインチキがばれたら困るので、マスコミの印象戦略によって、世論を誘導。国民のために、、、よいことやってますよ、、、という印象だけでいい。好印象だけを与えて真反対のことをやる。それを見抜けない民衆なので仕方ないと言えば仕方ないが、なぜ老人がつまらなさそうに老い、死んでゆくのか。そこに答えは見えると思う。そう、欲得を利用して人間を動かすことはできただろうが、老人など、そこから収奪できない状態の者には、冷たいものしか残さない。生きる喜びのすくない時代、少ない社会、老人は死をまじかにしてそのことを直感的に感じるのだろう。誰かが死んだら、町中の人々が死んだ人のために歌を歌う、芝居を行う、落語会をやる、、なんでもいいけど、そうした文化的な喜びを体現させて死者を弔う。そんなことがあるだけでもどんなに人は癒されるか知らない。しかし、国家も企業もそんなことはどうだっていい。ただ儲かればいい。貧しく成り下がったものである。今、私たちが生きている社会があたり前だとは決して思わない方がいい。かなりレベルは低く、恥ずかしい部分が多い。人間理解の低さ、人生観の貧しさにはものすごいものがある。多くの人は人がよいので、そんなには気付かないかもしれないが、しかし感動の少ない社会と感じていると思う。チリの鉱山の救出はそれはそれでよかったと思うが、あれは人生の感動とは違うだろう。本当によかったという話しではあるが、でもなんで同じような救出劇はこれまでにも炭鉱ではあったのに、と思ってしまう。誰かが、何らかの目的で取り上げたものを見て、感動とか可愛そうとか言うが、マスコミ病にかかってしまっている。自身のうちに感動体験を作れない人向けのドラマにも思えてしまう。正しい反動として、百花繚乱、文化の時代がこれからやってくるだろう。そうなったら、つまらない思想による統制も支配も簡単に吹っ飛んでしまう。だから、支配構造を考える者にとってもっとも怖いことが、喜びであり、感動である。それらは支配と相いれない。なので、いつの時代も、恐怖と不安を支配者は欲するのだ。民衆は何もそんなものにお付き合いする必要などない。