時を味方に

どんな権力もどんな力も時の流れには勝てない。
平家20年、ナチスも20年。千年王国を夢見、誰もがそうなると思ったものでも、時の流れに逆らえば力を維持することはかなわない。アメリカ200年の歴史は果たして時の流れに沿うものかどうか。かつて日本人がアメリカ映画を始めてみた時、誰もが、実は驚いた。現代ではそれなりのトリックがあり、面白みも新しさもあるのでハリウッド映画の人気も多少はあるのかもしれないが、アメリカ映画のお粗末さ、中身の薄さ、単純すぎる人間観察の幼稚さなどに、大体の日本人は驚いたものだ。テレビドラマは圧倒的にアメリカのものは面白かったが、ひとつの作品となる映画においては、フランス映画と比べても、ドイツの映画に比べても、もちろん日本の映画に比べても、なんでこう中身がないのかが、本当に理解できないレベルの低さであった。なぜなのだろう、、、という疑問以前に、こんな幼稚な映画を本気で作っている、、、ということがわかったとき、なんだか薄気味の悪い妙な感覚を抱いたのは、おそらく私だけではなかっただろう。今から4-50年ほど前の話しである。文化というのは、結局、その中身が誰からも尊敬されなくなったらおしまい、という面がある。そしていくら背景となる力で抑えても、金権で有名にさせても、誰も見向きもしなくなる。ピアノコンテストにおいて、買収された審査員がどこかの社長の娘をトップに選んでも、結局はその名声など長くは続かない。そんなことがあるかどうかは知らないが、文化とはそういうものだ。まだ一丁前の顔して威張っているかのように見えるアメリカ文化も、段々と恥いるばかりになっていくことだろう。アメリカ人には本当に人のよい、性格のよい人が多い。それは確かだが、一分の特権階級的な人には、自分を上位におき、威張る人がいる。何もアメリカ人に限ったことではないけど、日本人にももちろんそうした類はいるが、街中を歩いていて、白人特有の大きな態度を見ると、なんだかもう時代遅れというか、格好悪いというか、そうしたものを感じる。終戦直後はおそらくそうは見えなかったのだと思うが、はっきりと賞味期限が切れた文化なのではないか。まず、文化に現れる。何が格好良いか、、それとも格好悪いか、、、人間は残酷なほどにそれを嗅ぎわける。衰退する文化的な光景やその背後に潜むものを人は見逃さない。まだうぬぼれている白人は自分のことを特権意識をバックにふるまうが、もう誰からも格好よく思われていない。そのことにあまり気づいていない。何かが変わって行くとは、そういうものなのだと思う。これまで格好よく見えたものが、あるときから段々と変わり始めていく、、、そのことに、最初は誰も気づかないが、そうしたものが段々と売れなくなる、、段々と人が集まらなくなる、、何も白人が悪いと言っているのではなく、これまでの勝者という意味においての白人、、、原発関係者、、、マスコミ関係者、、、高級自動車を乗り、きっちりスーツを着こなし、いかにも力やお金はありそうに見えても、なんとなくアメリカ映画の域を出てない金持ち、権力者、、、そんなものに誰も憧れなくなっていく。
 けっきょく、格好が悪いとはどういうことなのだろう。自分以外のなんらかのものにすがって自分を大きく見せようとし、他の人とは違うということのみをアイデンティティにしている人間を見ると、私たちは、なんとなく格好悪いものを感じるのだと思う。金や地位はあるが自分を持っていない。その貧しさを本能的には気づいているが、認めずに、他と自分を比較して優越に浸ろうとする、、、こうした人間が格好悪く見えるのではないだろうか。格好悪いものは時代の流れが文化力になる時代においては、淘汰されていく。いま、金と力を持つものが、これほど格好悪く見える時代もない。経団連のお偉方は地位があるだろうが、なんであんなに貧しいのか。本当に格好悪くみえないか。原発はあの津波にも耐えたのだから偉い、、、などと、正気で言える神経は一体何なのか。そんな者がこの時代と経済を動かしていたのかという薄気味悪さ。もちろん仕事の面では非常にできる人なのだとは思うが、時代はもう違った個性を求めているのではないか。こうした格好つけのバカたちが自分を特権階級と思って時代をリードしてきたのは、単に図々しかったからできたことだったのではないか。まともな人は控えめでおとなしく、道理を知っている分、自己主張を抑える、、、その上に、ただ図々しいものが乗ってきただけだったのではないか。そして図々しいバカばかりが上にたってしまい、世の中はこんなことになってしまったのではないか。しかし、一般の普通の人の感覚からみても、もう彼らの時代は終えている。まだ力は維持はしているだろうが、すでに格好悪く見えているので、文化力が時代原動力になるこれからの主流にはなり得ない。もう原発を再開することも、金一辺倒の世界を作ることも、子供の命を奪い、弱い女を虐げ、ただ同然で人を使い、不要になったと言って早く死んでくれというようなやり方も、人口削減してどうにもならない人間など不要というようなうぬぼれも、もう通用などしない。官僚も大企業も政治家も、こうしてことを言ってもわかりっこないだろうが、やりたければやるがいい。時代に竿さしてどこまで頑張れるか、やってみるがいいと思う。すでにあごが出ているではないか。
 きょうを限りにマヤ歴の最終日となるらしい。来年の暮れだったのでは、、、という考えもあり、どちらが本当か、私も調べたわけではないのでわからないが、あまりに長期の周期なのである。来年も本日もそんなに変わるものではない。なんであれ、新たな太陽の周期に入ることになるのは、時代的にわかる。それでも格好が悪い人たちは、まだ原発をすすめ、経済一辺倒の時代が続くと思っているのだろう。ならばやればいい。決してうまくはいかない。原発もやってみろ。二度と再開などさせるものか、と誰もが思っている。それでも強因にやれば、きっと反動がでる。また事故が起きたりする。その際には、はっきりと、原発再開の責任者をはっきりさせてから動かせ。なんでもそう。TPPもやるならやればいい。ただし、その責任は誰か、ちゃんと決めてからやらねばならない。東電はけっきょく誰が責任者だったのだ。誰ひとり叱られることもなく逮捕者もいないとはどういうことだろう。そんなインチキな時代はもう終えた方がいい。そして終えるのだよ。東電は西山審議官が女問題で辞めただけというお粗末。いま、多くの国民が苦しんでいる。小泉以降の国民時給生活に落とし込まれたおかげで苦しんでいる。原発とその後の対応のひどさ、放射能まき散らしの政策に苦しんでいる。がれきを日本全国で燃やすというが、その責任者は誰だ。後世、いつまでも語られることになるから、はっきりさせておいてほしい。そうした非人間的な政策で苦しんでいる。食糧問題もいずれ出てくるだろう、この分で行くと。その際にはほとんどの国民が苦しむことになる。
 冷たく、自己保身の、優越感しかない貧しい者たちが上にたち、そのために多くの者が苦しむ時代が続くことはない。彼らのお粗末さはこれからますます具体的な出来事としてあらわれてくる。そして立ち行かなくなる。残るのはあなた、ひとりなのだ。私ひとり、あなたひとり、すべてのひとりがまともであればいい。あなたさえまともであればいい。これからは孤独な戦いだ。そして孤独な戦いにひとりひとりが魂を売り渡さずに生き残り、そうした者たちだけが助け合ったとき、すべてのこれまでのことが何ひとつ意味なくなかったということがきっとわかる。生き残るものは何か。それは生き延びようとしてこまごまな策謀を行う者ではなく、むしろほんろうされるがままに誠意を貫いた者なのだ。なぜならそこに命の本質が宿るからである。弱肉強食は滅びゆく者の本質であり、幻想なのだ。命ある者しか生きられない。死を恐れる必要もないし、未来を怖がる必要もない。命ある者となれば、用意するものはなく、時代のふところに抱かれるだけでいい。時代の流れは私たちにある。原発も貧しさも恐れる必要はない、そうした時代に入りました。
 原発に関しては、私は数年前の冥王星が小惑星に格下げされたおり、これで原子力の力が絶滅兵器的なものから、民生レベルに落ちてくる未来を予測した。世界中の占星術師の中で、冥王星格下げを重視したのは私だけだと思う。私以外の占星術関係者は、人為的に格下げされるだけで星自体が変わるわけではないから、影響はないと言ったが、私はその人間がその星をどう考えるかがその星に影響を与えるという立場であった。その結果、アメリカが核の御威光によって立つ国であるとの考えから、アメリカの衰退、そして核兵器や原発の民生レベルへのとらえ直しの時代が来ると読んだ。結果はその通りだったと思う。なので、もう原発問題が人類の死活を握る未来観からは本当は自由にならなくてはならない。それを可能とするなんらかの発見や救いが必ず出てくる、という立場に立っている。時代は一分の一握りの人たちによる支配を避け、目覚めて正直な者へバトンタッチの絵を作りだしたと思ってよい。それは地球と太陽など、人類の意思とは違ったところで決定されたものであり、確実な変化が始まったのだ。もう一見、得に思えても、沈む船になど乗らない方がいい。
                       マヤ歴最終日に寄せて  愛