見えないがあるもの
地球から目に見える惑星でもっとも遠いものが土星。水星、金星、火星、木星、土星までは目で見える星。実際には水星を見た人は少ないが、見えることは見える。水星は太陽と最大でも28度しか離れないため、どうしても見えにくい。金星も太陽と48度程度しか離れないが、こちらはよく見える。宵の明星、明けの明星である。金星、火星、木星、土星は肉眼ではっきり見える。これからの季節はとくに星がきれいに見える。土星よりも遠い惑星は天王星、海王星、冥王星などだが、これは肉眼では見ることができない。占星学では、目に見える惑星と見えない惑星の間に大きな意味の相異がある。
私たちの人生にも目に見える部分と見えない部分とがある。見えないものはない、というとらえ方で生きている人もいれば、目に見えないものを大事にして生きている人もいる。目に見えないものはない、という人は、逆に目に見えないものに縛られ、突き動かされる人生になる。と言って目に見えないものばかりに関心が行くと、今度は現実の問題に対する弱点が出てくる。神に祈りさえしていれば現実の問題がどうにかなる、というものではないように。要は両方のバランスということになるのだが、流れとしては、まだ目に見えるもの重視が優勢のようだ。結婚しようと思えば年収は最低でも400万円は必要、、ということになるように。しかしどうなんだろう。こうした流れは本当は逆転しているようには思えないか。具体的な形の上で自分の人生を防衛しても、だんだんとうまくいかなくなりつつあるのではないか。もっと目に見えないものを取り入れたほうが断然うまくいくことが多くなっていないか。
その昔、ホテルニュージャパンで火事があり、そこの社長がものすごいケチな人で、物質的価値観しかなかった。火事の報を聞いた第一声がホテルの美術品や調度品を持ち出せ、、、という反応だったとか。それでは人生をまっとうできないなと思ったら、やはり結局は借金を背負って亡くなった。金一途でやってきて、結局借金で終えるというのは、あまりに皮肉な気がしたが、そばで見ていた人からすれば、多かれ少なかれ、こうした顛末を予知していたのではないか。また一方で、経営方針を何でも占いで決める経営者がいる。これはこれで、やっぱりいつかきっと失敗するだろうな、、、と、何となくわかる。現実のルールがあり、そして目に見えない世界のルールがある。ふたつのルールはかなり異なるが、どちらも必要なのだ。そして人生の問題は、現実のルールに従わなくては行けないときに見えないルールに従い、その反対に見えないルールを重視しなくてはいけないときに、現実のルールしか見ようとしないことから起きてくる。ここでどちらのルールに従うか、、、その判断が大事になるわけだ。現実のルールを選ぶには基本的に努力が必要になる。勉強しなければ決してよい学校に入れない、というように。良い学校に入りたければ、やはり信心よりも一日数時間の学習の方が確実である。こうした努力を避け、なをかつつまらぬプライドをどうすることもできないと、人は目に見えないルールを選びたくなる。占いやまじないや弱っちい精神論や精神世界など。しかしそれは弱点のつじつま合わせでしかなく、目に見えない世界は実は開けてこない。そこで開けたように見えるものは、大体は幽界である。目に見えないルールを選ぶには、損失を恐れない情と思い切りの良さが必要になる。情の薄い、臆病な人間は、だからどうしても目に見えるわかりやすいルールに傾きがちになる。そしてその寂しさの保障作用として幽界的なものにつながってしまう。幽界はみえないがあるものとは、根本的に異なる。幽界はみえないどころか、かなり露骨で脅迫的で押しつけがましい性質を持つ。天王星以降の星の影響はずっと微弱で繊細で、それとは違う。見えないがあるものとつながるには、女性に共通しているものに目を向け、心を向け、それを尊重するといいかもしれない。相手が美人だからとか、頭がいいとか言うのではなく、普遍的な女性的なるもの。星の世界をそのようにとらえるとわかりやすい。目に見えるものが得られなかったところから出てくる保障作用としての目に見えないものではなく、見えないがあるものと通じることで、現代の窮地の時代を生きていくことがベター。
なんだかわかったようなわからないような話しになってしまったけど、昨晩、本日と、お世話になった方とのお別れがありました。目に見えない世界に旅立れましたが、やさしそうなお顔の遺影がなぜか私たちを慰めてくださいました。