次の歩み

12年、13回にわたる星と森短歌大会は昨日幕を落としました。大勢の方のご来場、ありがとうございました。これで私の外向きの活動は基本的に終了いたします。次の歩みは内側に目を転じ、新たな生き方の具体的な模索については、実験的に進めることはすでにブログなどで語ってきました。これはその通りで行きたいと思います。秋から仕事なども形態を整え、手作り的な試みの中から、人がこれなら生きていける、、、という手ごたえがあるものをいくつも探していくつもりです。そしてそれを色々な人にやってもらい、具体的に定着させることができたら、、、と思っています。組織に寄らない生き方、、、企業に頼らない生活設計、、、機構に組みしない生き方、、、そういうものは、これからが本番になるはずで、ドルもアメリカも円も日本もヨーロッパも、そこにあるほとんどの企業も、現代の価値観から抜けられない産業も教育も、おそらくは行き詰り感が出てきますので、人が他のものによる生き方を探求していく時代がすぐそこまで来ています。時代の流れに沿って考え、行動していく方が上でしょうから、一見、こころもとないように見えて、私が考えるような取り組みはいつしか本命サイドに育っている可能性があると思います。
 しかし今考えているのは、そういうものとは違った意味で、もっと自分サイドのものです。短歌大会も終え、暮れの公演も今年は止め、表向きな外への働きかけは、もう少し時代の変化を見てから進めたいと思うようになりました。次の歩みは、今、自分の中にあるテーマとしては、文化的で個人的な取り組みです。先日お話しました、お寺でビワ温灸などは、そのひとつになるでしょうし、もっと個人的なものとしては、宮中にある神楽歌を学ぶとか、自分的に倍音音声のバリエーション唱法を編み出し、最終的には能と同じようなひとつの形式を編み出したいと思う、など。ひとつの形式とは、たとえば、ギリシャの石舞台のようなところだと面白いと思うが、そこで仮面を手に持つ役者数人が立ち、語るとき、歌う時だけ仮面を下に下げるなどして発声する。その内容は語りと歌、、語り、歌、語り、歌、、の構成である。シンプルだけに深く、作者色を出さずに新たなものを作れる。もう自我の芸術にはうんざりしているので、こうしたものに戻りたいと思っている。語りと披講による単純な舞台芸術ができたら、これは素晴らしい。幸いに語りと披講の連続形式は、これまでの星と森公演によってその感触を確かめているので、手ごたえがある。きっと素晴らしいものができる。こうした内向きの活動を、そっとやっていき、きっと数年後には発表できると思う。能に匹敵する可能性がきっとあると思っているところは、本物のクレ―ジーであるに違いないが、まあ、そこが素人の良さでもある。
 とにかく、日本語で、その言葉が音に乗り、旋律に乗って、何かに語りかける、、、そこになかったものが語りかけられることで現れていく、、、この世に初めてあらわれていく、、、その表現は本来は人間誰もがやらねばならないものであり、名前を持つ人である以上、その責任があるのだ。なぜ、あなたは、○○という名前なのか、、、そう名づけられた時からあなたという存在が認知され、愛の対象や愛憎の対象となっていった。名前がなければ、きっとあなたはいなかった。名もない花に名をつけること、、、あらゆる名称にはそれをつけた者の思いがこもっている。それが言葉の力なのである。言葉とは名づけようとする意思であり、そこには人間のみが持つ思いの由来がある。なので、言葉はそのために人間に与えられている。言語を発すること、、詩を発すること、音を発すること、、言語を調べに乗せること、、、それが人間ということなのだ。なので、私はこれを今は内向きにやりたいと思うのだ。

 昨日、最後の短歌大会での主宰の歌は、東北震災に寄せた歌であった。
 
   題「遊び」
 みちのくの他にあてのなき避難所に子らの遊びの声ひびきをり

 
今回で星と森国際短歌大会は終了するが、来場者の中から、ネット上での短歌大会を主催してもらいたい、、、との話しがあった。おっしゃるには、ネットは現在、匿名という性格上、非常に荒れている部分があり、これをもう少し、善意が主体となるものにしていきたい。ついては、言葉をただし、美しい言葉による他への働きかけとして、短歌大会は非常に有効である。毎年、心打つ歌を100首選び、年間ネット百人一首にしてもいい、、という発案であった。お世話になっている上場企業創始者のお話しでもあり、実現性は高い。思いやりを言葉に込めるネット発展がなければ、ネット文化は終えてしまう、、というお考えであった。これについては前向きに考えさせていただくので、もしかしたら実現すると思います。