日本人男性とマザコン
日本の政治家や首になった西山審議官を見て思うのは、まるでロボットのように発言し、行動いているように見えることがある点。そのモトにあるのは、やはり母であろう。母の命令によって動くロボット。「お母さん、僕立派にやってるでしょ、、、でも、みんなが僕のこと、悪く言うんだよ。そんなことないよね、、、」かわいいと言えばかわいいが、仮にも上に立つ人がこれでは困る。だが困ったことに、日本ではマザコンしか出世できない面がある。独立した個性と生き方を持っている大人の人は、大体は出世できない社会だ。私はこれまでにこの人は成熟した人格を持っているな、、、と思ったのは、大体は出世から取り残されたというか、あまりそういうことに関心がない男性だった。長年、下積みの工員をしているとか、小さな会社の万年社員だとか、社会的には下位に当たるが、自分の家族を持ち、妻をいたわり、つつましやかに子育てをしていたのは、大体はそういう人だった。騒ぎ立てずに淡々と自分の人生を生きている。反対に上層部の男性はこれはほとんどマザコンだから、どうしても未成熟子供社会になってしまう。マザコンとは、自分の行動や言動の本当の意味は、お母さんによく思われることにある。総理もこれだろう、おそらく。国民によく思われたいなら、命がけの努力もするだろうが、お母さんやその代理となっている妻によいところを見せたい、ということだから国民はそっちのけになって、パフォーマンスが大事になってくる。本当に立派なことをやるよりも、立派に見えることが大事だという上層部の共通心理がある。多くの宗教家のトップや政治家の上、大企業の上に共通して、「お母さん、見ててください。」という叫びのようなものを感じることがある。日本の文豪と言われる人にもこれは共通している。三島由紀夫や川端康成を読むと、内容の根底に、母を捜し、訪ね歩くような衝動が見える。三島文学は、母にほめられるために書いたようにしか、私には見えない。ただ、けちをつけているのではなくて、けっこう好きなのだが、母不在からのあがきに見えてしまうということだ。これらは、日本特有の復讐の母性原理のためだという気がする。表面上は男性優位の社会の中で、その実験を握るために母は子供を質にとることを覚えた。自分の欲求や願いを夫に直接言うことをためらう裏で、子供がこうですから、、、、子供のためですから、、、、と、子を出しに使うやり方で夫を操縦していく。実はこれは復讐心である。当然、母性はゆがみ、子は自分を失う。子は母の道具となっていく。こうした中で競争を強いられ、常にトップにたってきたのは、官僚であり、日本の上層部を作った人たち。彼らに共通しているのは、本当の母を知らないということである。母なるものの復讐心の申し子なのだから、社会をよくするものなど作れない。復讐心が基本だから、必ず社会を壊す方向へ彼らは無意識に動いてしまう。こうして、男性優位社会とは非常に危険なものとなる。これが逆転していく以外にないのだが、そうなると、女性優位時代への流れがこれから起こることになる。命の委譲、命の保護、がテーマになるわけで、男性から女性への大政奉還があれば、母性のゆがみは修正され、世の中はたちどころに住みやすくなる。具体的には、女性が財産権を持つ。男性は女性に食わしてもらう、、、ということになってもよく、かなり心理的には自由になる。遊んでいればいい。金がなくなれば、勝手に女性が働いてくれるし、女性通しで助け合ってやりくりもしてくれる。男が働いて得た金や作物は当然、女性のもとに行くが、そうすればあとは責められもせず、遊んでいればいい。男の仕事は、機嫌よく、楽しそうに毎日を遊ぶこと。これが本当の仕事になる。何か男がしゃしゃり出てきて、社会をどうしようとか、国をどうしようとか、なんて考える必要もない。それらは命の流れ、自然の流れで勝手に決まっていく。あえて男がこうあるべきだ、、、なんていう必要もない。遊んでいればいいのであって、それでいて怒られることもない。母は怖くないものとなる。女に受け入れてもらえない男はエッチもできないし、子供もできないかもしれないが、そこはそこ。そうしたみじめな気持ちをわかってくれる女は必ずどこにもいるので、泣きの演技だけでいい思いをして生きていく男だってたくさん出てくる。女が財産を持ち、女の助け合いで社会が維持されていくのだから、男にも無理はない。男の仕事は、生涯に一度程度ある、何かのきっかけで女が窮地や危険に立ったとき、一度でいいから、体を張って女を守ること。それさえできれば、男は一生威張って生きていける。本当の勲章が得られる。それができないやわな男のほうがずっと多いのだから、威張れるわけだ。また、やわな男でも、それはそれで女に愛され、大切にされるケースがほとんどだろう。オス同士の猫のメスをめぐる争いでさえ、負けた猫の方についていくメス猫がいるくらいだから、ましてや人間の女性である。弱い男をかわいがりたい女もいる。はげていてももてるケースは出てくる。どこかの審議官のようにかつらなど必要なくなる。年が行っているおじんでも、やさしさがあれば若い女が興味を示してくれるかもしれない。彼女らは、将来の結婚の保障など必要もなく、正直に男の好き嫌いを選べる。しばられる制度なんかもないのだから。男のエネルギーがこれでは収まらない、、、という面もあるだろうが、そんな場合は、勇壮な男だけの祭りをつくればいい。祭りで男意気を示し、それに失神する女も現れる。祭りで男を上げ、女に抱きしめられるような状況は、出世してビルなんかつくるよりも面白いのではないか。まあ、人それぞれだとは思うが。とにかく女上社会は男にとっても気楽なことになる。なんだか、ユートピアではないか。そうでもないかしら。マザコンになってまで男社会を維持することはなく、どうやら限界に近づいていると思うのだが。この認識は大切で、これがないと、マザコンの最終形態としての権威、権力完全機構によって、人類は完全管理の方向に向かってしまう危険がある。嘘男性上位による悲劇は想像を絶することになるでしょう。それは復讐の権化であり、ここはひとつの命を守る、、、という、偽り男性放棄、そして女性への大政奉還の道を選ぶのが本道ではないでしょうか。私はこの視点から女性名を以前から名乗ってきたのであって、これらを具体化する生き残り方というか、楽しい命のあり方を考え、実行していきますので、引きつづきブログほかを、どうかよろしくお願いいたします。