不信任案のゆくえ
内閣不信任案のゆくえが明日判明する。果たしてどうなるか。解散総選挙を恐れた日和見議員が不信任案を支持しないケースが予想されるとマスコミは言う。まだかなりの任期があるので、地位に恋恋とするということか。しかし考えてもらいたいのは、不信任案を否決するということは、現政権の原発震災対応を肯定する公けの意思となるだろう。小沢は不信任案に賛同すると言っているが、地位を失うことを心配するチルドレンの中には、親方日の丸という、まだそういう権威にすがりつこうという信念のない者が多いかも。大切なことはどちらの勢力に付くのかではなくて、政治家として国民を思う決断として考えてもらいたい。民意は管などには任せて置けない、、、と思っているのだ。なのに自分らの地位保全のために不信任案を無視するとしたら、この国はどうなっていくのか。国民はどうなってしまうのか。
きょう、悲しい出来事があって、関係者と食事をしたがその際に、政府の無政策のあまりのおかしさに、「わざとやっているんでしょ、、、そうではなければ、いくらなんでも、こんなことってありえませんよね。」とたずねた。すると、「戦争末期でも日本は同じことやってたよ。平穏期には官僚システムがうまく働くが、危機管理は日本はまったくダメだ。」というご意見をいただく。しかしそれにしても、、、、と思った私はしつこく念を押すように、「じゃ、日本の弱体化を狙ってわざとやっているわけではないんですね。」と言うと、「まあ、そうだと思うよ。本当にこういうときにいつもダメなんだよ。」そうなんだ、、、と、多少は安心する自分に驚いたが、本当にそんなことがあるものだろうか、、、とまだ疑問もある。日本を苦しめようとする勢力が絡んでいたとしたら、あえて何もしないで日本人を追い込むことが可能になる。これから日本に襲ってくる天文学的な賠償請求などは、何もしないで事態を大きくしたほうがいいだろう、、などとついうがった見方をしたくなる。だが、戦前も日本は危機に際するとそうだったらしいと。確かにそれは本当だろう。だが、戦争の時だって、日本を戦争に追い込みたい勢力があったはずで、知らないうちに軍部の上がその勢力の間接的操縦を受けていなかったとも限らない。それほど地球の運営は複雑な面があるのではないだろうか。陰謀という単純な見方もできるが、どちらが敵でどちらが味方というような、単純な判断ができない力学で政治も場合によっては経済も働いていると思う。スパイ活動などはその先端を行っているだろうから、単純なスパイのほかに、逆スパイ、逆逆スパイなど、非常に複雑だと思う。逆スパイだと知ってわざと逆逆スパイにさせたり、逆スパイであることを知っていて泳がせるなど、非常に高度なテクニックが働いているだろう。まして、歴史を構築していくような場面が簡単な道理やテクニックで動いていくとは思えない。こうしたことは、一般人にはまったく知りえないものでもあり、私たちの戦い方は当然、違ったことにあるだろう。下手な想像よりも一般人には一般人なりの新たな時代の作り方がある。結局は、これからの時代はそういう時代ではないか。強固な中央集権的なものよりも、砂の一粒一粒がその色を変えていくことで、あっという間に世界が変わる、、、そういうやり方。それに勝てるものはないはずだ。結局は権力も陰謀も歴史の力学も、元はといえば、個々の総体が作り出したものだからだ。なので、歴史を変えるのも歴史を作るのも個にあり、あなたの中にあるわけだ。あなたの中の何かが変わらない限り、世界も変わらない。逆に言うと、あなたの中の何かが変わったら、世界も変わる。そこでたずねるが、あなたの中の何かが、変わったことなど、この数十年の中であっただろうか。日々は変わり、景色も変わり、体も体重も変わったかもしれないが、あなたの中の重要な何かは変わっただろうか。大変失礼な言い方かもしれないが、おそらく何も変わっていないのでは、、、だから世界も変わっていない。さらに言えば、あなたの心の老化や心の衰退とこの世の動きはきれいにリンクしてはいないだろうか。そのことが管政権かもしれない、原発であり、震災だったのかもしれない。不信任案をどこに出すのか。管に突きつけるのは当然ではあるだろう。しかしそれが否決されようが可決されようとも、どちらにしてもそれはときの流れである。不信任案を本当に出すべきところは、私たちの動かない、変わらない、私たちの心にこそ、それは届けられるべきものなのかもしれない。