森(ソフト・東()と平野(ハード・西日本)に分化定住する時代

日本では電気の周波数がなぜか東西で分かれているが、そのことが今回の震災や原発事故においても、大きな弊害を与えている。なぜそうなったかは知らないが、まるで占領しやすい状況をつくるための、高度な判断が働いていた、、と見ることもでき、なんだ、まだ終戦にはなっていなかったのだ、、、という気持ちがわいてくる。今の日本人はほとんどが戦争を体験したことはないが、今回の震災と原発事故後、日常の生活が突如、戦時中になってしまったような、そんな印象を抱く人が多い。とくに東日本においてはその傾向が強い。輪番停電が当初あったためもあろう。復興の遅れにもこの周波数の違いは関係しているようだが、考えてみれば、東西や南北の格差の縮図が日本でも始まったとも考えられる。今後東京がどうなっていくかでもう少しはっきりするだろうが、どう控えめに考えても、今後、経済に与える影響は大きなものとなる。とくに東日本経済がどうなっていくか。復興需要よりも経済縮小の方向がはっきりしてくるのではないだろうか。そうなれば東京の果たす役割も存在感もこれまでのようにはいかなくなってくる。場合によっては遷都というような事態に至れば、東京の地価は劇的にダウン。金融に与える影響は計り知れず、日本は確実に第二の終戦に至る。まあ、ここまでは誰もが想定できる一つの筋書きだが、たとえそうなったにせよ、それをチャンスにする方法はないだろうか。実はそれがある。新しい日本の大きな可能性は、むしろ、東西を分けられてしまった方が面白くなるかもしれない。
 経済的にぽしゃってしまう東日本を、あらゆるソフト的な場所にし、西日本はこれまで通りの経済発展をはかる。あらゆるソフト的とは、その場所が、物や流通による経済圏と違う、ソフト的なもので生計を立てる場所にすること。あらゆる文化の拠点、芸術、観光、人の生きがいに関係したあらゆる活動の拠点、理想の学問、世界のあらゆる伝統文化を保持する拠点、など。具体的にイメージすると、まず、美しい自然があり、どこに行っても美しい。それはその自然や山や中山間地域に、定住する人がいて、魅力的な分化活動を行いながら、森や海を美しく保っているためである。中山間地域が荒れ放題になっているのは、それを経済的資源としか考えず、人もそこに定住することが少なかったからだ。そこに人が定住し、美しい場所に変えることは可能である。そしてそこに住む住人はただの住人ではなく、歌が得意な者たちの集団、、踊りの集団、、、演劇の集団、、あらゆる文化や芸術愛好の集団である。教育もそこにあるし、生きがいや生きることに直結するという意味で、産院や小児科もあるし、素晴らしい森の病院も多い。命と生きがいにかかわるあらゆるものが東日本にいけば、息するように自然に、魅力的に、感動的にそろっている。ひとつの山では、毎朝、山の上からコーラスの歌声が響いてくる。まず最初に山頂から朝の歌声が始まると、だんだんとふもとに向けて歌声が続き、5分後にはすばらしい合唱の山となる。この光景を見たさに、世界中から人が集まってくる。それは東日本が作ったひつつの合唱の山である。住人は素人だろうがプロだろうが関係ない。毎日、山の合唱館でのどを磨いているから、誰もすぐに上達してしまう。午前中はみんな農作業など自由にやってもちよった食べ物は合唱館にあふれている。西日本に住む合唱好きな若者も、そこに行けば、いつでも歌の世界に入り、食べることも自由。生きがいをなくしたり、金欠で不安になったらそこに行けばいい。十分に楽しみながら生きられる。なぜなら、みんな歌が好きな連中が、そこに暮らし、食べ物も豊富にあり、世界からやってくる音楽好きの世話の手伝いをしてあげる程度で、何か月だっていられるわけだ。また、元気になって、西日本に戻ればいい。夜になれば毎晩、当然のようにその山のどこかでは音楽会が開かれる、、、。今夜は湖に面した館での音楽会。湖の奥からソプラノ隊を乗せた船がやってくる。松明をもった男声合唱隊が山から下ってきて、船上の女性合唱隊と接近する。船着き場で男声合唱隊は女子合唱隊をひとりづつ迎えて湖面の館に入場する。そんなカーネギーホールでも見られない光景が、合唱の山に行けば体験することができる。感動の音楽は一晩中続き、会が終えたのちも観衆と歌手たちは一体となって山を下り、山のビヤホールにたどり着く。そして歌の宴会はいつ終わるともなく続く。音楽好きにとって、こんなに楽しく、面白く、感動的なことはないのではないだろうか。皮肉れた人はそんな三文芝居よりも本格的なオペラが聞きたい、、、というかもしれない。しかしそんなことは朝召し前である。なにせ、彼らはそこに定住して毎日歌の実力を磨いているのだ。どんなオペラだってあらたな演出で歌いあげることができる。また、心ある世界の一流の芸術家は、こうした表現に心魅せられ、かならずあらわるし、友情出演もするだろうし、また、必ずと言っていいくらい、ビヤホールまで付き合ってくれるだろう。中には定住したいと言い出す世界のパバロッティやドミンゴやマリアカラスがきっと出てくる。こうした可能性はそれこそ自動車作りや工作機械づくりとは違って考えられないような飛躍的な奇跡を生じるケースが多くなる。自動車づくりなどでは軌跡はないので、コストダウンが主流になるのは仕方ない。しかし文化の山、東日本の文化経済ではとんでもないことが起こるのである。感動した世界の音楽愛好家は、この山に住むために、一坪、一億でも金を出すと言い出す。そうなったらそういうものではないと親切に説明して、いっぱい一億円のビールをさしあげればいいのだ。すごい経済が東日本で起こる。たった一つの合唱の山でさえこうしたことが起きてくる。陶芸の山や里があり、管弦楽の里や山があり、絵描きの集まる村もある、、、踊り、物書き、、アニメの森、、命と直結するものと言えば、出産も当然そうである。心ある医師と看護師が住む山の産院では出産をこうした環境で行いたいと思う女性がやってくる。駐車場に車を止めると、そこには馬車がまっており、妊婦にもやさしい厚手のクッションに座るとかわいい少年は馬をあやつり、歌を歌いながら山の産院へ向かい出だす。胎教やこれからのことを山の産院ではやさしく時間をたっぷりとって教え、誰かが必ず、そばにいてくれる。妊婦同士もゆっくり話し会うことができて、毎晩、小児科の先生と夕食をともにして、その後は出産の夢をみんなで暖炉の前で話しあう。めでたく子供が生まれると、山には出産をしらせる鐘が鳴り響く。山に住む人々は産院に祝いを持って駆けつけてくれる。歌や踊りを伴いながら。新しい命がこうして感動の中から出発していく。産後を十分に理想的に過ごした母と赤ちゃんは、みなに見送れて山を下る。そう、来たときと同じ少年の馬車に乗って。駐車場で自分の車にキーを入れたとき、果たして、本当に自分が戻るところはどこなのか、、、きっと母は考えるに違いない。こうしたことがあまりに蔑ろにされてきた日本、、、というか世界。しかし東日本ではこうした命の営みと文化が、定住する人によって優しく力ある手ごたえで続けられていく。世界はもう金儲けだけではなく、命につながる文化的な物事へと、一方のかじを取っていくべき時に来ている。それを東日本でできるのではないか。しかもこれは新たなソフト経済を起こさせる。このソフト経済はこれまでの経済をしのぐ可能性がある。とはいえ、両立すればいいわけであって、元気に効率的に、金儲けしたい、、、稼ぎたい、、、という人は、西日本で頑張ればいいし、疲れてもう少し人間的な生活がしたい、、、という人は東日本に行けばいくらでも自分が生きていく道がある、、、という究極の選択が可能となる。
 これが私が15年ほど前に出した、「森と平野に分化定住する時代」である。今、東西の分断は大きな危機を日本にもたらす可能性がある一方で、こうしたさらに大きな可能性もあるのだ。ソフト的な場所の構築には、工場やオフィスを作るような投資も費用もいらない。そしてそこから生み出される価値は無限である。投資対効果で考えると、信じられないような利益を生じる構造を持っている。あなたの隣でドミンゴが手をとってアリアを歌ってくれる、、、そこに1億の金を置いて帰る人だっているかもしれない。もっとすごいのは、自分の死後、全財産をここに残したい、、、という人も大勢現れる。おそらくの話しだが、もしも音楽の山で人が死ねば、亡くなった方の全生涯が歌でつづられていく、、そして人のたましいがどこに戻っていくのかの実感が手ごたえとともに表現される。残された家族にとっても本人にとっても命の終焉の地として、駅前の葬儀場とは基本がことなるものを誰もが感じ取る。けっきょく、便利、優越、効率、というものが指導する経済もそれはそれでいいが、命、生きがい、という面が指導する経済がこれまで少なすぎた。なので、発展性と可能性は比を見ないのではと、私は思う。
 分断されていた、東西ドイツ、今も分断されている朝鮮半島、そして、分断の恐れがある日本の東西、、これらでこうした未来が築かれたら、人類は新たな世界に旅っていける。いや、そうならなければいけない、というのが、私の数十年来の思いであったが、今回の震災の復興にこうした思いを強くすることになった。

「森と平野に分化定住する時代」マドモアゼル・愛著
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