正論の時代
ウソ偽り、だましに国民がこれほど怒っていることに、政権は気づいているだろうか。これからは、正論の時代となる。民主党の中でも、学者の中でも、芸術家も、企業人も、一般人はもちろん、目先の自分の利益をはかり、ウソや偽りを押し通すことは、すでに危険である。これを言ったら会社の上層部に嫌われる、、、という保身はもう今は通用しない。むしろ逆転しだしている。インチキな上層部に表面的に合わせていたら、一網打尽にされたときに、あなたも一緒にされてしまう。マスコミ人はこのことにもっとも気づいていない古いタイプの人間が多い気がする。一番先頭を行っているつもりで、実はもっとも遅れているのがマスコミだ。
福島の子供の放射能年間許容量を20ミリシーベルトにしたことを、世界は驚いて見ている。あまりにひどいと思って見ている。確かに表土を取り除けば、かなりの数値は抑えられる。年間許容量が1ミリにしても20ミリにしても、どうせ同じことを国や地方はやらなければならないのだ。1ミリにしたままでも、今はそれよりも多いので、必死に対策を打っている、、、という姿勢なら、民意もついてくる。がんばってくださいと。しかし、責任逃れするために、20ミリに上げた。法令的にまず自分の責任追及されないために数値を上げた。それは子供の健康と命よりも自分らの保身と受け取られて仕方ない。実際にそうなのだろう。いかにも目先つじつま合わせの秀才が考えそうなやり方であるが、こうしたやり方や、そうしたやり方を生む体質が、今、嫌悪されている。正論でいくべきなのだ。1ミリシーベルト、それを超えているので、こうした対策を打っている。何月何日までにどうやっても数値が下がらなければ、学校移転する、、、というのなら、すでに遅きにいっしているが、みんなもついてきた。なぜ20ミリまで上げたのかは、上記のような体質と、あるいは、日本人を実験台にするような思惑など、悪魔的な意味ももしかしたらあり、政治家は上から押さえつけられている可能性もあるが、だからこそ、正論が求められる。こんなインチキはいずれ弾劾されるに決まっているのだから、そのお先棒を担いだ、、、と言われる方が不利になる。政治家も、企業家も、市職員も、教育者も、マスコミも、先々にまでわたる汚名を着せられたくないのなら、最初は孤独に思えても、正論を言うべき時なのだ。それが自分を守ることにもなると、早く気づいたほうがいい。
上同士でインチキをして利益を一般人から奪い取ってきたやり方に、もう国民は気づいてしまっている。なので今、民意は正論にしか動かない。原発を認める考えが多いというが、それはマスコミの恣意的なウソだと思う。もういい加減にしないとマスコミの先はない。こちらも何もマスコミなどと争う必要はなく、ただ新聞を買わない、、ウソつき企業の商品を買わない、、、だけでいいのである。原発反対デモなど、大勢集めたデモをマスコミは扱わず、あまり多くなかったデモをあえて取り上げるあたり、やり方は上手だが、スポンサーを亡くす覚悟で取り組んだ番組は視聴率を上げている。マスコミも腐った死を迎えるより、正論を中心に生まれ変わった方が勝ち。どの局がそれを始めるか、、、早いもの勝ちの状況ではないだろうか。
しかし、こんな簡単なことがわからずに、旧態依然の状態が至るところで繰り広げられている。それほどこれまでの体制が堅固だったともいえるが、わかっていてもすでに甘い汁を吸い過ぎていて、それはもうできない、、、ということでもあろう。また、正論に変身しようとしても、脅される、命を狙われる、、、ということもきっとあると思う。とくに政治家などは間違いなくそうだろう。なので、どうせ殺されるなら、国民が死のうがどうなろうが、これを死守する以外にない、、、とおそらくそう思っておいでだろう。だから、どんなに理屈があわなくても、馬鹿だなんだと言われようとも仕方ない、無能ぶりを発揮し、国民の利益と正反対のことをやり続ける。ここに倫理のない、魂のない、政策が成立するわけだ。国会答弁など聞いていると、政治家よりも東電の方が上なのだ、ということがよくわかる。そういうことがわかってくると、一体、日本を動かしているのは、何なのか、、、ということ。そして、なぜ、こんなにも震災の対応が後手後手になっているかということ、、、などの理由もそれなりに理解できるようになるのではないか。津波で壊されていない原発。実際はその前の揺れでおかしくなっていた、、、ということも間違いないことなのだが、それも隠し、国民の金によってすべてを埋め合わせしようとしている今の政権や企業のバックにいるもの。まあ、そうしたものを許容し、選んでいるのだから、まあ、仕方ないけど。ただ早く気づかないと、日本人はこれから本当に辛苦を味わうことになる。テレビや新聞が言っていることが本当のことだと信じていると、まあ、どうなるか。福島の人たちは、そのことにすでに気づいた。被災してわかった。苦しい中で、何がウソで何が真実かを被災者は理解しだした。他の日本人もあとに続かないといけないのだが、不思議なもので、自分のみを守ろうとすると、このことが分からなくなる。時代は個の時代から、すでに仲間と連帯の時代に入った。それは闘争するための連帯と仲間ではない。何も上と争う必要などはないと思う。ただ、上はもう日本人を豊かにさせることも場合によっては、その命を守ることもできなくなる可能性がある。なので、そういうものに期待せず、自分らでどう生きていくか、、、この地域だけでも生き残るにはどうしたらいいのか、、、という発想で、個々が国に頼らない生き方、生活の仕方を考え、実行し、それがうまく行ったノウハウを、多くの人に伝え、いつの間にか広げていく。知らぬ間に助け合う日本人の絆ができていく。そうした流れを応援してくれる政治家を選んでいけばいい。金をくれる人より、正論による生き方を支援し、応援してくれる人を選べばいい。目先の金をくれた人は原発を壊してどこかに行ってしまった。最初のアメは美味しく感じられたが、10円のアメのかわりに何世代にもわたる負の遺産をおしつけてどこかに行ってしまった。アメ欲しさに誘拐犯についていった子供と同じ心境を、私たちはもう味わってはいけない。
国に頼らない生き方、、、その基本がエネルギーの自給だろう。原発を推し進めるのかも、そこらへんに理由がある。エネルギーを自給生産されると、最終的に人間は金に縛られず、自由に生き方を決められるようになる。民を奴隷にして自分らが儲けたい人にとっては、これは許せないことなのだ。だから原発にこだわる。しかも原発は最後には核爆弾と同じで戦争をしかけなくても民や国を脅せる。また、もっと言えば、いざとなったら人類を減らしてしまうことも簡単にできる。支配の道具としての原発、というのが本当のことであり、単なるエネルギーのためなどではない。だからしつこくこだわるのだ。だが、こうした事象が生じた以上、もう安全であるわけがなく、問題点を踏まえて原発体制を維持するということなど、あり得るわけがない。しかしそれがまだすすめられているということは、理由はエネルギーのことだけではないからであり、とくに地震国に原発をつくるなど、いずれ、この国を壊そうとしていた切り札を持たせたも同然。こうやって日本人を売った人は、一体誰だったのかは、これまでの政治と原発がどうやって許可され作らて行ったかを調べれば簡単にわかることだろう。とくにマスコミの働きは大きい。ポルポトが何百万人の民を殺したり、スターリンが何千万人を殺したとか、毛沢東も同様だったとか、、、、アメリカもベトナムで何をしていたか正体がまだ知られず、至るところで虐殺劇が起きているが、マスコミが伝えなければ何もなかったと同然。しかし今度は日本を世界の孤児にし、報道をシャットアウトしさえすれば、日本で何が起きてもわからない道理。そうなりたくなければ、日本人は今こそ正論を言うべき時に来ています。都合でのやり方は、自分を守るように見えて、最後は守れない。人の墓を掘っていれば自分は助かると思っても、最後にはやはり墓に入れられてしまう。人類の歴史は実はそういう歴史だったわけで、そうでないように見せていた民主主義はもうすぐ終わり、また本来の形に戻る危険が。とはいえ、日本人は直観的にまた生理的に新たな時代をとらえ出したので、ここはそうした時代を終わらせ、新たな、本当に新たな時代を築きだすことが私は確実だと、本当は思っている。なぜかわからないが、そうした確信があるのだが、今の状況を実際に見ると、非常に危険。これが日本でなかったら、もっともっと、凄いことが起きていたでしょう。もう上に期待せず、自分らでこれまでの生き方、生活の仕方と異なるものを作り出していきましょう。東北の被災者も、仮設住宅は大切だが、実は集団の生活の楽しさを感じている人もいる。地域のありがたさである。実は国にとっては、これはまずいことなのだ。民衆が本当に地域の連帯によって生きだすと、近代国家は崩壊してしまう。本来なら、新たな町つくりのひとつの形として、これは菅も言ってと思うが、ドイツの集落に似せた町づくりなど、面白い提案もある。その昔、ジプシーが昼は勝手な仕事をしてかつかつながら糧をかせぎ、夕べには集まって火を焚き、酒を飲み、踊り、歌い、熱き目が合ったものと森の中で愛しあい、、、そうやって日々を送った。こんな素敵な人生があっただろうか、、と思う。しかしそれは近代国家の時代には絶対に許せないものだった。それがもっとも楽しい生き方だとわかっているがゆえに、それは壊さなくてはいけなかった。そうでなければ近代国家は維持できなくなる。民を収奪する近代国家は、人間の自然な喜び、魂の躍動を、あえて拒否する形でない限り、存続できない宿命を負っているのである。もう、そろそろ、そのことに気付き、私らの新たな生き方を色々と作っていく時に至った。そうでなければ、生きられなくなる可能性が高いからである。東北の被災者は、もうこうしたことを受け入れる意識に達しているが、国はそれを無視し、魂のない、個別化をはかる仮設住宅をせっせと作っていると思う。それはそれで仕方ないが、おそらく、神戸とはことなり、今度は仮設住宅がジプシー化していき、実はユートピアの種が作られていくかもしれない。そうなれば私はいつでも出向き、和歌の披講などして、鎮魂と安寧を祈りたい。何回か行くうちに、東京よりもずっと楽しい、、、、となり、もう東北にいたいよ、、、と思うような、そんなジプシー現象が起き出すことを夢みている。ナチスはジプシーを目の敵にして弾圧した。虐殺した。なぜそこまでするのか、、、それを許したら、自分らのよってたつ基盤が成立できないためである。それは今も続いている。