お墓参り

きょうはお墓参りに行ってきた。お彼岸の中日にいけなかったのできょう行きました。父母、ご先祖様のお墓でお祈りしていると、お墓に入っている人はのんびりできていいなあ、、、というような妙な気持ちに。ご時世がそう思わせたのでしょうが、帰りの喫茶店でもあちこちで、なんだか凄い時代になったなあ、、、という話し声が聞こえてくる。戦争中もこんなだったのかな、とおもうけど、私の母は長女を背中に負ぶって戦闘機の機銃掃射から逃げたという。人間の生涯には一度は自分の意思とは関係ない社会や世界の変化の波にもまれることがあるとおもう。社会矛盾がこれまでになく大きくなった今の時代、何もないというのも変。ここいらで何かあるとおもったのもつかの間、あっという間の展開になった。
水がやられているということは、このまま続けば人が暮らせなくなるという可能性もあるわけだ。テレビではのんきに、乳幼児が数回水を飲んでも大丈夫ですので、あわてないでください、、といっていたが、水って数回飲んで終わり、というものではないでしょ。毎日飲むものでしょ。それが数回飲んでも大丈夫というのは、かなりあわてることだよね。あわてないでください、すぐに死ぬわけではありません、、、といずれなるのでしょうか。こういう時代は大げさに考えるのではなく、本当にいつ死ぬかもしれない、という覚悟があると楽になるとおもいます。武士の生き様と同じで、武士はいつも死を覚悟しながら生きていた。そこから武士道が生まれた。死を覚悟しなければ本当は正についても語れない、という構造があると思う。なんでも勉強だと考えて、どんな状況でも、どんな時代でも、そこから学んでいけばいい。911もそうかもしれないが、すべての問題は貧富の差から来ている。まずこれを平均化する方向であらゆる事件が起きている。表面的には金持ちがさらに金持ちになるために、民衆から搾取する構造を強化していく流れだが、現実はその方向にはおそらく進まない。平均化するまで大混乱となるだろう。その元には、物質的なものを平均化する、という意味以上に、霊と体のバランスが元に戻るまで混乱が続く。体があまりに重視されすぎ、霊的なものを押しのけてしまった。何よりの最大現の利益を追求しようとするシンボルでもあった原発が壊れた、その信仰が崩れた、ということは、体と霊との位置が逆転したことになる。大将が負けた以上すでにこの世は霊的なものが体的なものよりも優位に立ったことを示す。金儲けもいい、食べることも楽しい、肉体的な楽しみもすばらしい、、、しかし思い、魂、霊的なものが最初でなくてはならない。そうでなければ、もう何も作れないし、何も働かない。これは理想論で言うのではなく、現実としてそうなったのだと思う。霊が体よりも先になるということは、体の構造自体が霊的な思いによって作られ、変化する可能性を示す。放射能などももしかしたら体によいものにすらできる可能性があるのかもしれない。あまり一般的ではないし、そんなことは言えないが、霊が先に来くれば体さえそれに従うという例としての話しだが。考えて見ればお墓参りも同様だ。あちらの世界とこちらの世界とのコミュニケーションという面がある。あちらの世界の人にこうした危機のときは相談してみると思わぬ霊的な援助がないともかぎらない。とにかく自分ができるところから現実の行動を、霊的な自分と相談して始める時代になった。私はこの春はやはり農作業からスタートしたいと思った。その前に、来週あたりからオフィスを再開するつもりだが、真っ先にやるのは、被災地のかたがた、または被災地と縁があり、悩んでいる方々の、心の相談をメールで受付ようと思う。すべて無料は当然として、できる限りの人の悩みにのりたい。ラジオ他で人生相談を15年ほどやらせていただいている私にできるのは、そんなことでしかないが、そこからスタート。そして畑仕事と、続く予定です。