組織対個人、連帯
これからどうなっていくのか、誰もが不安を抱いている。確かに不安だが、冷静に見ればもう見えてくる未来もある。まず、東日本では順番に停電が続くので計画的な生産活動は制限される。復興需要にある程度の限界が出てくる。今回の被災を経済的に考えて復興需要を目論む考えもあるが、これは間違っている。生産活動の制限のほうが大きくなる。大手企業は日本を出て行くところも多くなるだろうし、中小の企業が取り残される。倒産するところも多くなるし、何より、都心の不動産価格が劇的に下がる心配もある。職を失う人も多くなる。こうした事態に円安がいずれオーバーラップしてくる。あらゆる利益追求の組織体が行き詰まる。
私は二年ほど前から、もう仕事をしてもあまり意味ない的な気分をどうしても抑えることができなかった。何をしても利益追求の行為は、いずれ徒労に終える気がしてならなかった。現金収入がなければ生きていけない時代なのでそれでもみな仕事から離れないが、本音では安い自給とかで仕事をするよりも、家の中のことをきちんとこなすほうが自給以上の働きがあったのではないか、という気持ちがしていたと思う。生きるためには月にいくら必要か、、、という考えが基本にあったが、これからは違ってくる。お金ではない。きれいごととしていうのではなく、11日の震災の帰宅を急ぐ都民はいくらお金があってもタクシーをひろえない、電車は動かない、おなかがすいてもコンビ二には何もない、、、いくらもってても何もできなかったではないか。
多かれ少なかれ、これからはこうした状況が続く。そして最後にお金の価値は紙だった、ということにいたる。なぜならお金は紙だからだ。もう少し簡単に言うと、世の中には今は裕福な人も貧しい人もいるが、とりまぜてすべて60億で割ると、どのくらいの生活ができるのか、、みんな平均に考えるとどの程度の暮らしができるのか、、これが地球の考えであり目標ではないか。60億はみな地球の子供であり、みな命ある存在。それを生かすには平均でいいと、地球は考える。科学技術の進歩によって、おそらく暖をとる、一日二食、心地よい衣服、質素で簡素な家。この程度が平均した形ではないだろうか。先進国ではそんなひどい生活に戻れない、、、と誰もが思うだろうが、果たしてそうだろうか。こうした生活なら地震が来てもそれほど壊れるものはないし、一日二食程度ならいつでもおいしく、残さず食べられる。そして次がポイントだが、この程度の生活を維持するには、ほとんど働く必要はなくなる。これが明治以前ならけっこう大変だったと思うが、技術の進歩のおかげで道具が与えられている。シンプルな生活を楽しむことができるはずだ。仕事は少ないが、規制されて組織の中で働くのではない。もうそうしたやり方は大量生産も必要としないのでなくなる。ではなぜ人は仕事をするのか。すべて奉仕である。あの人のために絵がかきたい、、、あの人たちの家を建ててやりたい、、、こんな服をあの人にあげたい、、、みんなが人のために奉仕をしだす意味での仕事。そんなことをしていたら誰が生きていける、、、と考える人もいると思うが、それは反対。次から次に物が、心のこもった物がやってくる。次から次に心のこもった食べ物がやってくる。確かに大量生産よりは量はすくないかもしれないが、どれも心がこもっているものばかりなので、大切にしたくなる。心がこもって作られた服だ、そんじょそこらの服とは違う。ユニクロの使い捨てとはちょっと違う。ずっと大切にとっておく。家もそう、食事もすくないかも知れないけど、とにかくおいしい、、お米が光っている、、、水も清く光っている、、、こうした質素だが喜びをベースとした生活をしていくうちに、みんなの顔が光ってくる、、、中には従来価値から抜け出せずに、儲けるためのアイデアやときにはだましてきな誘いやあやしい組織への勧誘もあるにはあるだろうが、見るからに匂いが違うと思うようになる。近寄りたくないと感じる。こうして、いずれ組織的なこれまでの価値集団と個人や個人の連帯の二通りの原理が同居していくかもしれない。この綱引きの結果が未来を決めていく。というか、未来は実は決まっている。地球と争って勝てる者などこの地上にはいない。あまりに一部に富が行き、あまりに不公平に貧しい人が多すぎる今の地球は、貧しい者が生きていけないレベルにまで成り下がった。地球はみなを生かしたい。なぜ原発なのか。原発とは何か。それはあらゆるものよりもとにかく利益を優先するという、これ以上ないシンボルではないか。そのシンボルが壊れたのだ。なので時代は変わったわけだ。利益優先、ことに命よりも利益を優先するものはもう時代を動かす力にはならない。
経団連の会長は、あの大地震にも原発は耐えた、本当に立派だ、、、というような血迷いごとをまだ語っている。悲しい話である。何もわかっていない。というか、本当は人がよすぎると思う。本当の本当の自分の利益を考えてみればわかるはず。地球とけんかしても勝てっこない。目先利益追求、合理追及をどこまでも進めたがる人は、あまりに人がよすぎる。そんな危険なことを平気でできるのは、あまりに近欲すぎる。私などは本当の意味で強欲にできているので、そんな危険なことは考えられない。本当に得することを考えたら、人をしばることも人から奪うことも、まして子供たちの未来を奪うような真似はできっこない。損するに決まっている。何よりも危険だ。とにかくこれからはみんなが食べられる、みんなが同じように生きられる方向に進む。髪も悪魔も同じように考えている。神はそこから真の喜びが光り輝くようにと、そして悪魔はみなを同じように収容所化するために。そしてわれわれはそこに喜びを見出す戦いがこれから始まるわけだ。
具体的にいうと、高級車を乗らなくても、一日二食でも、数少なくてもリッチではなくても大切な服や家、、
そこに輝きと光が生じる生活を目指す。自然と一体となる、地球と共に生きる次の文明が始まり、犬も猫も動物も植物も鉱物も喜び、みな光ってくる、、、そうした時代の入り口が開いた。今回の数万人の犠牲者に顔向けできることは、もう一度同じ町を作ることでも、もう一度同じ生き方をすることでもない。