清貧の楽しさ
神経症で苦しむ人にとっては、そのつらさは死のつらさと同等であり、これ以上の苦しさはないと考える。確かにそうなのかも知れないが、そうでないともいえる。森田療法を構築した森田正馬博士は、晩年には神経症礼賛で通した。全国の神経症の講話会の名称をつける際にも、森田はひとり、神経症礼賛会がいいと言ったが、弟子たちの常識路線に押されて、結局は確か「生活発見の会」となった。私は断然森田博士の気持ちの方が伝わる。神経症礼賛派だ。死ぬほどの苦しみを感じる神経症も、視点を変えると礼賛すべきものとなる。この構造は神経症に限らずすべてのことに共通する。車の運転ほど苦しいものはないと考えるタクシードライバーもいる一方で、車の運転ほど楽しいものはないと考え、生きがいにすらする人もいる。同じことをやっていながら、捉え方には雲泥の差がある。大体、人生自体がそうである。生きることがつらいと思う人もいれば、生きることほど楽しいものはないと思っている人も多い。実際に年に3万人以上の自殺者が出ている。非常に残念なことだが、生きることのつらい面がはっきり出ている。では、どちらが本当なのか。生きることは楽しいのか苦しいのか。答えは両方なのだと思うが、どちらに転がるかは視点次第ということ。風が動いたのか、旗が動いたのか、、という公案がある。風が動いたわけでも旗が動いたわけでもない。観る視点、捉える視点によって風が動いたとも旗が動いたとも見える。要するに私たちは旗や風を見ているように思うが、実は自分の心を見ていることになる。この法則はすべてにあてはまる。ひるがえって、人生はつらいか楽しいかも同様。神経症がつらいか楽しいかも同様。このとき、ならば楽しいほうがいいのか、という価値観から離れるといいと思う。楽しいと捉えるからいいのではない。愛するものを亡くした人が、どうやっても人生を楽しいなどと捉えることはできないだろう。楽しむべきは楽しみ、苦しむべきは苦しむ。森田はさらに言う。貧しいときには富むものをうらやみ、富めるときには清貧を懐かしむ。そこに人情の自然があり、それが美しいと森田は考える。すばらしい人生観ではないか。
現代人はどこかに何か正しい答えがあると思っている人が多いと思う。しかし人生のどこにも正しいものも間違っているものもなく、すべてはひとつの視点に過ぎない。視点の存在が、合体、変化を繰り広げている。自分の心もそうではないか。だから世界も同様に感じられ、それを体験することができる。
これから変化のスピードがアップする時代になると思うが、どんな様相も自分の心の視点だと思えれば、この地上を誰かと共に楽しみたいと思えるようになっていく。