12月公演は万葉集
今年で三回目となる星と森披講学習会公演は「万葉集」に決まった。膨大な万葉集の中から、何にどのようにフォーカスをあてるかを昨夜話し合った。答えはセクシャリティであった。恋の歌である相聞歌と死にのぞんだ歌である挽歌で行こうと。なぜそれがセクシャリティなのかだが、命そのものだからだ。万葉集は大友家持が編纂したわけだが、その後150年ほどにわたって実は和歌は歴史の中にあまり表れない。漢詩前世の時代となったのである。漢詩の影に隠れて、日本本来の和歌はあまり顧みられなくなる。大友家持が藤原勢力に追われていく中で時代も変わっていったのだろう。考えてみればそれは明治から現在も同様である。明治の初めには、日本語を廃止して英語にしたら、、、という明治の元勲まで現れたのだから、すべてが西洋重視となった。こうした傾向は先の大戦をはさんでさらに強化され、学術界ではとにかく海外の文献を探し出し、それを日本に紹介さえすれば博士号がとれるような、そんなまやかしの時代を作っていった。しかしここにきて、こうした流れに変化が出始めている。それも急速にである。はやぶさなどの帰還も、こうした流れの一環であろうが、アメリカが威信をかけて作ったスペースシャトルなどより、はやぶさは多くの人を驚かし、感動を与えた。日本的なものがまた見直されているのだ。万葉集はそうした原点にあたるもののひとつでもある。漢詩をはじめ、海外のものを広くありがたく受け入れる時代が終えると、日本では再び万葉集を評価し、そこに戻る人が現われてくる。万葉集に見られる見事な多様性の中に、命に直結する力があるのだと思う。それは万葉集冒頭の歌にも確信的に出ている。ふくしもよ、、、の歌だが相聞歌である。恋したときと死を意識した時、人は通常とは異なる深い情緒を持つに至る。それはその人が生きた証しであり、命そのもの。万葉集には命の輝きをそこら中に見つけることができる。歌とともに人が生きた時代、歌あって人は自分の人生であることを意識できる。これが日本人の原点にどうしてもあるのだ。日本の文化はこれまでにも、お茶やお華など、非常に高く海外でも評価されているが、本当はその原点に和歌がなければおかしい。和歌のないお茶やお華など、本来はありえないことであり、海外優先志向が生んだやむない形でもあったと思う。日本文化の根底にはどうしても和歌がある。昔、日本文化を集め、その神髄を伝える古今伝授があったが、古今伝授の中でとくに大切なことは、やはり和歌とその歌い方である披講についてなどであった。残念なことに、こうした本当のものはどうしても秘儀となるので、西洋優先の明治以降のこれまでの150年ではそのことが分からなくても仕方なかったのだと思う。しかし日本はどんなに海外かぶれをしても、最後には日本本来のものに戻っていく。なぜなら、そこに命の輝きがあるからだ。昨晩の会議なども、披講をした後であったので、メンバーには学習会において発せられた倍音と高周波の洗礼を浴びている。昨晩は結構長く歌ったので、全員がお風呂に入ったような軽さと、ハイな状態を作っていた。途中で倍音に合わせるようにコオロギだかカンタンが甲高く鳴き出し、披講の音に合わせて張り合っていたが、あまりにこちらの人数が多くて、対抗できぬものを感じたのか、日ごろ聞けないような叫びを発し続けていた。そんな状態での会議だったので、物事の本質がよく見える。平均年齢相当高いメンバーであるにも関わらず、万葉のフォーカスはセクシャリティの一言でまとまった。日本文化はいま、再び目覚め始めている。これまで、西洋のものに関心を寄せ過ぎていた分、心と魂の渇きを伴って、和のものが尊いものに思えてくる。某大学教授の昨晩の話しは面白かった。最近の学生は優秀な人ほど留学をしたがらない、、、15年前ではありえないことだったと。家持が藤原との確執に負けたのと同じころから、漢詩全盛となったように、明治からこれまでの150年も同様であったが、私たちの魂は恋する気持ち、ひたむきに何かを求める気持ちを、渇きのように求めだしている。もう、見せかけのものでは納得できないところに来ている。