立秋

すでに立秋を過ぎ、暦の上では秋。この感覚は山の中にいるとなんだか実感できる。山に限らず、ねぶた祭りなどを終えれば、東北の夏もおしまい、、、短い夏に北の人々の命が燃えることになる。夏の終わり、祭り、秋の気配、、8月の半ばを過ぎると、私はいつも、人生とは、時の流れとは、、、と、中学生のころから感じるものが多かった。いつのころからか、夏を待ちながら日々を送る自分を発見したことがある。そして夏が来てしまうと、、盛夏を過ぎたころはとくにもの悲しくなる。冥王星がMCにあって、ちょうど8月の半ばを過ぎると太陽が通過していくためでもあるが、夏の祭りには、命の輝きが次の世代に引き継がれていき、あちらの世界がこちらに迫ってくる、お盆の実感が確かにあると思う。この時期、人は、自分の一生が自分のものだけでなく、代々受け継がれ、そして全体の命の中ですべての人が生きているという感覚、感性をどこかに忍ばせるように感じる。盛夏はある意味非常に残酷で特別な季節である。この時期、人は文化に目覚める。これから訪れる秋、冬に向かい、命の輝きを抑え込む中にあって、代々受け継がれるべき人の営みが生み出した文化に関心が行く。文化祭が秋に行われるのは自然なことに感じる。春から夏には人は一人で生きていくのがよく、盛夏を過ぎたときからその頂点を実感し、人は一人では生きていけないことを知って何か、共通の物事に関心を持つ。そうした自然な心の動きが美しく見える時期がこれからやってくる。これは人生の長いスパンでも同様で、春と夏に当たる人生の前半は、地位を求め、自分を押し出し、金を得たいと思い、競争の中に自分を置いても、おかしなことだとは思わない。かえって自然なことだと思う。しかし、人生の折り返しに至り、そうした態度が相変わらず変わらない、、、ということではなんだかさびしい。変な老人が多くなった印象があるが、老人になっても損得と自分のことしか考えられない。もったいない話しである。大きな命の予感とそこに所属する感性は年齢が行った、人生の折り返しで気付けるものなのに、そうなっていない。現代人は自然な人の一生のプレゼントを奪われているのだ。いつまでも何かに収奪されるか、みずから収奪するかのわかりやすさは、人間を機械化し、本来の時間の流れ、人生から人を遠ざける。魂の重さが昔の人間の魂の重さに比べて、数十分の一になっている。現実に立脚しておらず、幻想と観念が中心にあるためである。現実に立脚したなら、こんなアスファルトで地球を埋めるような文明は作れない。現実に立脚するならば、働きづめで生きるような人生を選びとることはしない。現代人は宗教と観念と幻想の時代を生きている。迷わされることのない見極めはこの時期がもっともふさわしい。それにはお盆で先祖と交わるとともに、帰りの混雑の現実のおかしさの中で、不自然な日常に戻ることの意味をもう一度問い直してみるとよいのではないだろうか。