努力の誤解

努力することはよいことだと思われているが、確かにそうではあろう。ただ、努力と三昧とは違う。三昧には個を成立させ、成熟させるものがあるが、努力には個をゆがめる危険がある。努力に無理があると、必ずと言っていいほど、そこには復讐心がともなう。勉強ができる人になぜ復讐心が強いかのそれが本当の理由である。また悪いことにそういう人があらゆるものをリードする立場に立ってしまっている。中にはあまり努力しないで勉強ができるとか、勉強が楽しい、、、という流れで自然に勉強ができてしまう、、、という人も結構いる。そういう人にはやはり何か安心できるやさしさがあったりする。とにかく人間はあまり無理をすると本来のものをゆがめてしまうことが多くなるわけだ。霊的に考えると、人間は霊の入れ物という面がある。物質は霊を求め、霊は物質を求めるという大法則があるためだが、人間は高度の霊を収める入れ物としてできている。ほっておいたら、自然と善人に行きついてしまう生き物である。しかし幾多の苦労、努力、苦悩を味わうと、それらと関係の深い霊の入れ物に自分をしてしまう。誰が悪いというものではなくて、自然にそうなっていく。そういう場合でも人間本来の形と違うので、間違った霊の入れ物になると、本人も苦しい。そのため、人間の最大の努力というのは、自分の体を悪霊の入れ物にするために払われる努力が最大の努力とも言える。悪人になるためには、実はたゆまない努力がいるということなのだ。これはこれで大変なことなのだ。たとえば、笑う、、、という行為は免疫力を高め、あらゆる病気を治してしまう可能性があるが、そのためには心底笑う必要がある。人間、心に何か重いものがあるとなかなか笑えなくなる。しかしそれでも本当のところでは笑いたい、、という気持ちがある。しかし何かおかしなことに触れて、つい笑ってしまったら、これまでの自分を捨てなくてはならなくなる、、、本当は捨てちゃえばいいのだが、意地があるのでどうしても捨てられない。しかしそこをうまくついて、さらにおかしなことを見せつければ、ついに我慢しきれずに笑いだしてしまうことがある。その時、ついに笑ってしまった人の魂は解放され、楽になる。そしてもう二度とあの苦しみの自分に戻れなくなる。官僚の横暴や悪意や陰湿さは努力の苦しさとそのために湧き出した復讐心に担保されている。誰が冷たい官僚を笑い殺せるか、、、誰が悪人を笑わせることができるか、、、そこに行きつかないと実は世の中は変えられない。悪人を殺せば良い世が来るどころか、彼らの思うつぼである。悪はさらに悪であることを力づけられる。悪は本筋の命にはつながっていないから、横取りしてしかエネルギーを奪えない。なので、まともで普通で善意の人間がいなければ生きていけないという根本矛盾を抱えている。なので最終的にはやっと花をつけたら、咲いたまま枯れる運命を持っている。新たな憎しみをエネルギーにしなければ生きていけない。そしてその流れの構造を基本的に断絶させ、一瞬にして本の太古の自然な状態に戻すものが笑いである。私は悪の行動原理に近い神経症を青年期に深くまじめに体験しているのでよくわかるのだが、偶然に大笑いをしてしまったことがあった。その時、自分を苦しませていた神経症のあらゆる症状がすべて一瞬にして消えてしまったのを知って驚いたことがある。その時はすべてのメカニズムを本当に理解したわけではなかったので、しがみつくべく神経症の苦しさと症状はすぐに復活してしまったが、この体験は心のメカニズムをそののち理解する大きな助けとなった。考えてみれば岩戸開きも笑いと歌と踊りであった。神話は確かによくできている。悪人にももちろん笑いはある。それは優越のタカ笑いであり、嘲笑の笑いであり、冷笑である。腹の底からおかしくて楽しくて本当に大笑いしてしまったら、自分をすべて忘れてその現象のおかしさに大笑いしてしまったら、悪人は存在の基盤を一瞬にして失ってしまう。私たちも苦労して怒っているときは、絶対に笑おうとしない。笑ってしまったら自分が負けたようになってしまう、、、そんな意地が働く。そして笑うことよりも不幸を選択する。その権化が悪魔であり、彼らは人一倍努力している。なので、この世の支配者になっても確かにおかしくない権利は一面ではあるのかもしれない。なにせ、一番苦しいことを、一番無理なことを、何年も何世代にもわたって努力してきているのだから。快適さ、解放感、笑い、、、なぜ現代からそうしたものが急速に消えていったのか、、、、テレビを見れば、そこにある笑いは冷笑と嘲笑の笑いである。15年ほど前まではまだお笑いでももう少し、本当に面白いものがあったが、最近ではやっぱり変わってきている。腹の底からわらったことが最近ない、、、そういう人が多いと思うが、おそらく何かで苦労されて努力することを求められているのだろう。そうなれば、きっと何かに復讐したい、、、人間が嫌いだ、、、という気持ちとセットされていると思う。古き良きアメリカの時代のホームドラマは笑わせるものが多かった。そんなものでもどんなに大勢のアメリカ人を幸福にしていたことか。しかし一度苦しみ、つらい努力を重ねる、、そうなったら、どんなに面白いものを見ても知っても笑えなくなる。笑えるようになるには、その前の心をほぐしたり、自然なものを受け入れるような体験が必要なのだろう。文化の本当の役割は生きる際に出くわす幾多の苦労を、悪にせずに笑いによって流し、あらゆる努力以前の三昧によって生きる道を作ることにあるのではないか。文化の時代が復活する。この世の危険から身を守る簡単な方法は腹の底から笑うことだ。それができないときは、それができるように生活を変えていくことだ。何かが間違っているからだ。おそらくそれは正しいと思っていた努力にある可能性が高い。努力しなければならないものより、三昧になれるものを探す。無理な努力による苦しみから離れる。その上で周囲を笑わせることができるようになれば、あなたは神から愛される人になる。時代を変える人になる。悪とは笑えないということだ。