年度末
年度末の忙しさにプラスする出張の多さでブログの書き込みも滞りがち。そんな中でついにやってしまったすっぽかし。ラジオ番組の収録を完全に忘れるという失態。関係者の皆様に本当にご迷惑をおかけした。完全ずっぽかしは長いこと仕事をしてきておそらく初めて。まいったことです。そろそろ仕事のやり方も変える時期にきているのかも。時代の変革期は個人の仕事や生き方にも影響を与えるのかもしれません。
昨日はおもしろい体験をしました。ダイヤの完全カットは日本が最先端を行っているのですが、その技術を見てきました。ダイヤは完全な石であり、他の波動や影響を跳ね返す力があるとか。波動を図る装置で人体の各種波動を測り、その問題点をダイヤが補う、、という座談会のようなものを原宿で行った。私は肉体的に長期の疲れが出ている波動らしく、当たっていると思う。直感敵に、私は一万円札を持てば自分の問題の波動が修正される気がして、そう言うと、周囲は、そんな、、、、という反応。気にせず財布から一万円札を取り出して再計測。するとほとんど理想値に波動が修正された。よっぽどお金が好きなんですね、、、と思われたかも。次に水道水をコップに入れて計測したところ、やはりかなり低い波動となった。私がそれを倍音発声によって波動を高めるという実験。母音発声を数十秒続けて水道水に聞かせる。その後再計測してびっくり。ほぼ理想の水に変身していた。
ダイヤでの波動修正は凄かったが、倍音発声で水の波動が理想値に変身するのは、やはり、、、という気持ちで嬉しかったです。将来はダイヤや石や音、色や光による病気の治療が当たり前の時代になるはずです。そんな自信を深めることができました。詳しくは来月発売の雑誌アネモネで特集されると思います。
■ 長かった火星の衝 2010年03月21日(日)
しし座の火星はそれにしても長い。秋の終わりから初夏までと、7か月以上もしし座にいることになる。私はみずがめ座なのでもろに火星の影響を受けた。火星はギャンブルも表すので、本当にこの半年はまったく競馬はダメだった。何ひとつゲットできなかった。あまり知られないことだが、火星は実は芸術活動とも深い関係にある。今は亡き紅亜里先生は、芸術家は金星なんかじゃなくて、火星よ。とよく耳打ちするように語ってくれた。私の出生時の火星が、太陽、金星、木星とトライン、さらに海王星と合なのを見て、愛ちゃんは芸術家よ、とよく言ってくれた。自分的にはなんだか違うような気がするが、芸術家には確かにあこがれる。いくつになっても異性からモテるには芸術家以上のものはないだろう。ただ売れてなくてはダメだろうね。ピカソは80近くになって確か若い女性と恋したようだし。ピカソは女同士に自分の奪い合いをさせることが好きだった。ピカソにはコンプレックスがあったのだと思う。ピカソやゲーテを批判すると、どこの馬の骨か分からないような者が勝手なことを言うな、、、と言われそうだが、私はピカソの作品を見るとあつくるしいような重たい気持ちになる。一般的には無邪気とかこだわりがないとか思われがちなピカソだが、私にはピカソの根深いコンプレックスを感じ、重たくなってくる。高齢に至るまで創作力が衰えなかったのも、そこらへんがあるためだろう。根深いコンプレックスは異性関係には必ず現れる。子供の絵のようにふっきれたと思われがちなピカソの作品だが、恋も創作も高齢まで続けられた背景には、満たされぬコンプレックスがあったためだろう。幸せな芸術家はいない、とも言える。レオナルドにもミケランジェロにもスーティンにもモジリアニにも、白人文化圏の芸術家に共通していることではないだろうか。たとえば縄文土器のように深い生命の根源とつながった芸術という視点に立つと、白人文化とそれ以外の土着文化のどちらが上かは、これは答えがおのずと出てしまう。たとえば、おそらくはレオナルドやミケランジェロよりも、もしかしたらモジリアニやユトリロよりも低く見られているかもしれない、歌麿や葛飾北斎、東洲斎写楽だが、公平な目で見てみれば、劣らないどころか数段上のレベルにあることがわかる人にはわかると思う。いくらゴッホがすごいと言ったって、北斎に比べてみたら、ゴッホ自身が頭を下げると思う。どちらが優れているという話しは子供じみているので無意味だし危険でもあるが、芸術の出どころが異なるという視点は必要ではないか。命の元とつながる芸術と、管理化された人間の運命から出発している芸術とでは方向そのものが異なるのだ。命の元とつながり響き合うという意味においては、この二千年の芸術作品でおそらくは縄文土器より優れているものはほとんどないと思う。やりくりはとても上手にはなっているけど。いま、必要なのは、やりくりではなく、命につながり響き合うことであり、そうでなくては新しいスタイルをつくれない。管理の完成としての地球強制収容所化を無意味化する縄文的芸術の復活が出てくるはずで、倍音、高周波の音楽なんかもその一つ。誰もまだわかってくれないけど。
■ 春の珍事 2010年03月19日(金)
あーん、あんなに悪く言ってたトヨタ車をついに買ってしまったよ。中古車だけど。
自称ヒルズとオフィスを往復するのに、これまでは大きなワンボックスカーだったけど、大きい車は通勤には不自然で、小さな車を探していた。そして見つけたのが、なんと23万円の中古も中古のトヨタ車でした。これまで散々トヨタのこと悪く言ってごめんなさい。人間が考えることなんて、このようにすぐに変わってしまうものだ。ヒトラーなんかも、オープンカーで行進中に、沿道に出てきた人々の物凄い歓迎を見て、真っ先に手を振り声をあげているその同じ者が、また真っ先に余を悪く言いだすのだ、、、と看破していた。確かにそういうものでしょう。しかし、自分の意見や感じ方を自由に変える、、、というのは意外に楽しいもので、たとえば、何かに熱中していたが、ある時からあっさり忘れてしまう、、、ということがある。そんな時、愛先生、あれはその後どうしていますか、、、と尋ねられて、ああ、あれね、もうあきちゃった、、、と言って、ひんしゅくを買ったことがある。しかし私自身は割り切れて楽しい気分である。昔、そばの通を自称する作家がおり、作家はそばつゆをほんの少ししかつけずに毎度食す。その方がそばの味がよくわかるとかなんとかで。しかし作家の辞世の言は正直だった。一度、そばつゆいっぱいつけて食べたかった、、、。つゆいっぱいつけて食べたい時はそうして食べる、、、つけたくない時はつけないで食べる、、、そうしたことが、自然にできなくなるときがある。自分の意見や考えや価値観を人に押しつけたときなどはそうなるだろう。テレビなどくだらないから見ない、、、という気持ちはわかるが、それをことさらいえば、人前ではテレビを見にくくなる。似たような形で、私たちは自分の生き方を窮屈につらくしている面があるかもしれない。人さまにはあまり自分の個人的な価値観や考えを言わないでおく、、、というのは、実は自分が自由に生きるために必要な態度なのかもしれない。答えを選択できているうちは私たちは自由だが、自分が出した答えにしばられ、振り回されてしまうとつまらない。そんなことで、行きたくもない学校に進み、行きたくもない会社に入り、やりたくもない職種で、つらい思いをしている人もいることだろう。そんな時は、なんだかあきちゃって、、、と、自由に変更して気楽に生きたらいい、、、と、トヨタ車買った弁解だったりして。
■ 春フル回転 2010年03月16日(火)
なんだか春は忙しい。色々な場所に出向く機会がどうしても多くなる。花粉症ではないが、目にうろこがついたような違和感があり、水で洗うとすっきりする。かなりの花粉が飛んでいるのだと思う。戦後にわざわざあのブナを切り倒して、杉林に変えたりした。動物が喜ぶ広葉樹を切り倒して、建築材に必要と杉を植えた。しかし植え方も素人だったのか、また管理育成もしなかったのとあいまって、杉林は荒れ放題。細く使えない杉だけの山になった。何もしなければ、広葉樹の実だけでも多くの動物や人が食べられただろうに。人間が頭で考えて全員でやることは、大体が大失敗に終わり、その修復に追われると相場は決まっている。その本当の理由は、だます人がいるためである。ある目的を持っている人は、その目的達成のためにウソをついて周囲や集団を一定の方向へ持っていこうとする。人間の歴史は実はこれがほとんどである。ウソつきがリードし、ウソを体現してきた歴史と言ってもよい。だからよくならないわけです。ここまで医学も科学も進んだのにあまりよくなっていない。確かに昔よりは楽になった部分は多いが、それには、幾多の原住民の死、戦争での犠牲、上位からの圧力による苦痛などの犠牲と引き換えになっている。殺された方の立場からしてみれば、科学技術など進歩しなくてもかまわなかったような代物である。大体、何人殺されたのだろう。この便利と言われる世を作るまでに。スターリンひとりで何千万人、毛沢東ひとりで何千万人、アメリカ移住で何千万人のインディアン、オーストラリアもかなり悲惨だったろうし、インカまで遡れば、何人殺されたかわかったものではない。魔女狩りでもかなりの人が殺されたはずで、殺した方はその財と科学技術の基礎になる技術とノウハウを奪いつくした。近代科学技術、医学もそうだが、おびただしい民間薬草学や民間の天才指導型のアイデアや技術の収奪によって出来上がっている。ウソつき型権力支配が基本にあるので、末端に至るまでこの構造が行きわたったのが現在である。上にいる上司でも、人のよい本当のことを言う人はどんどん追いやられて、いずれ失脚していく。会社でも政党でもボランティアでもこの構造は変わらない。だから、いまいる多くの団体、企業、国家の上はウソつきで固められていると思ってもまず間違いない。ただし、例外はあるので、個々の立場で判断する必要はもちろんあるし、ウソがいやでも仕方なくそうしている者も多いとは思う。そうした人の意識を変えて、善意の方向に変えなくてはいけないわけだが、時代の大きな原動力は、間違いなくウソにあった。まともで人の話しや行動を善意で受け止めようとうする人と、初めからウソをついて、自分だけが得する絵を作ろうとする人とが一緒にいれば、ウソつきが勝に決まっている。これがこれまでの少なくとも、数千年の人間の歴史だった。まともな人がウソに図られ、、利用され、殺され、奴隷にされてきた。もっとも大勢の人間を奴隷にするためには、自分らが奴隷であることを気付かせないことがもっともいいので、現代人は本当は金銭奴隷にされているにも関わらず、そのことを認めようとしない。なので、ウソつきには本当に素晴らしい状態となっている。私が学生のころはまだ日本ではどんな仕事をしていてもまじめにやりさえすれば、一応は一家を支えていくことができた。しかし今は違う。まじめに働いてもワーキングプアで、自分ひとりさえ生きていけるかどうかの瀬戸際に立つ人も多い。そこまで行ってしまった。ウソつきが勝つのは当たり前とはいえ、本当に完勝してしまっている。なぜそうしたことが起こるのかは、善意の人、通常の人間の陥る弱点があるためである。それは、何かを信じてしまうからだ。信じることで、自分の中にある未来想像力を相手に与えてしまう。ウソつきを信じてしまい、自分の創造性をゆだねてしまう。本当はウソつきには、未来をつくる力はない。新しいものを作る力は彼ら、ウソつき軍団にはないのだ。彼らはすべてを真似て、奪い、統治する。そのレベルのことは模倣からでもおこなえる。彼らは自分らが天才だと思っているのかもしれないが、今の上位者に本当の天才などいない。模倣の名人しかいない。天才はすべて冷や飯を食っている。才能ではなくずるさがないと今の世界の上にはいけないようになっている。だから本当の天才はあくまで個人的な範疇での自己実現にとどめていないと危ないものを感じて隠れる。しゃしゃり出るのは模倣の名人だけである。しかし、ここにトリックがある。上は勝ちすぎたのだ。勝ちすぎて自分の世が永遠に続くと思っているかもしれないが、残念なことに、ウソつきと模倣者には創造ができない。なので、模倣社会は命をやがて失い急速に陳腐化していく。すでにその兆候が出てきている。ウソつきはウソの花を最大に咲かせたまま、その時点から枯れていく。咲いたまま枯れていく運命を持っている。そのことにそして気付かない。なので、最終的にウソつきが勝つことはないのだが、そこまで行くには、善意の人のすべてが奪われるまでそのことが続く。奪いつくしてしまえば、もう奪うものはなく、彼ら自身の構造が壊れていく。簡単にいえば、給料を安くして働くだけ働かせ、最大の利益をあげたつもりでいても、民衆に金がなくなれば経済は成り立たなくなってしまうのと同じことだ。ひとり勝ちしたら、もうゲームは続けられなくなる。そうなれば永久的な奴隷制にすればいいと彼らは考えるだろうが、創造性が蓋をされた時代にも原理にも命はないので、崩壊することになる。彼らは、ウソつきは創造性に依存し、癒着しなくては生きていけない。どんなにウソの世を作っても、どんな存在も全体の本当の命につながっているから存在している。ウソつきも善人も同様である。この原点は変えられない。赤ちゃんは弱いから殺してしまえばいい、、、と考えたら、人類は絶滅して勝者も敗者もいなくなる。それと同じ。ウソつきは創造する人から奪えない限り存在できない。ウソつきを神と思い、ウソつきを信じる、私たちの思いによって彼らは存在している。それはあなたが自分には未来を作る力などない、、、と思っているから、このウソの世は作られている。あなたの自分の能力の放棄により、何かの模倣によって、自分の安全を得ようとする人々の総意があり、それが彼らウソつきの存在を許し、戦争を許し、あらゆるこの世の悲惨を許している。すべては自分の創造性を信じずに、他のものを信じたことにより、この世は残念ながら作られている。イエスが言ったことは本当のことだったが、それはキリスト教とは違う。多くのの宗教は実は誰が作ったのか、、、この数千年はウソつきが法衣を着た時代であった。それを許したのは、自己の創造性の放棄に起因していることをそろそろ気づく時期に来ている。
■ 連帯家族 2010年03月11日(木)
血のつながりも大事だが友人知人のつながりも大切だ。家族は本来は大家族が通常だったので、育児や家事の負担が楽だった面がある。また、大家族には意外にプライバシー重視の面があり、同じ居間にいてもそれぞれが勝手に何かをしていて、それでいて干渉しあわない気楽さがあった。全員一致の話しの時だけ首を突っ込むだけで、あとは自分の世界が自由に作れる。大家族は人間が生きていく上でわりと理想的な環境に近かった面がある。現在は核家族が主流なので、家族間の絆は弱体化し、それぞれがバラバラになった。夫婦の心も親子の心もつながっていない。その中での子育てなど大変であるに決まっていて、多くの人が育児ノイローゼになって当然という構造になっている。
前回のブログ、月4万円で暮らす、の反響が大きかったようなので、今回も続編。前回は貧乏でも楽しく生きられる面から語ったが、これは貧乏に限った話しとは違う。核家族には実は無理があり、あれは仕事に奉仕する意味でつくられた、一種の奴隷制度的な生活形態である。なので、核家族、勤め人、、、ということになると、家族間のつながりを必ず何か犠牲にしている。その結果が離婚であり幼児虐待であり家庭崩壊であるなどの悲惨な状態を生じる。これは私たちが巧みに奴隷状態におかれていると考えればわかりやすい。その奴隷から解放されるために、月4万円で暮らす方法があり、さらに、連帯家族というような知人友人との助け合う、強力しあう生活を作る必要があると思う。二世帯が一緒に暮らしても悪いわけではなく、とくに離婚した母子家庭などは単体で生活することは危険ですらある。助け合いが必要。同じ境遇の母子家庭が3組集まれば、もう何も怖くない。子供を保育園に行かせるお金もいらない。代わりばんこに見ていたほうが安心なうえ、法外な値段の保育園料金を払わないで済む。食事も当然かわりばんこにつくり、夜は子供たちは大騒ぎするだろうが、大家族のような安心感に包まれる。母たちはちょっぴりお酒など飲みながら、仕事の愚痴や冷たい上司の悪口を言い合う、、、ひとりの時にはあんなに思いつめていたことも、時には死すら思い浮かんだこともあっただろうが、みんなと愚痴を言いあえれば、なんだか状況は何も変わっていないのに、笑って済ませることができる。これからは金の力で人が幸福になれるような、そんな単純な時代ではなくなっているのだ。連帯家族を持つこと。その必要がある人から順次そうしていくことだ。お金をつかわない、、、孤独ではない、、、いざというときの助け合い、、、日々の充実、、、男ができたら、食事に呼び、みんなに見せてあげれば、正直な意見も聞けるだろうし、外泊もしやすくなる。勝手に男を連れ込むことはタブーで当然だろうが、なんだかひとりひとりの人生のドラマを連帯家族で共有するありがたさは、おせっかいを超えた心の安全弁だ。こうやって生きていくことを、日本人は長い間忘れてきた。すべて仕事に奪われ、その結果家庭を壊し、子育てに悩み、体を痛め、、、そこまでやる必要などもうない。考え方さえ、人を受け入れる気持ちさえ持てれば、すぐにも私たちは地獄から抜け出せる。ともに暮らす連帯家族のような存在がこれからは大切になってくる。OLなどで十分に生活ができる人でも、月10万円の家賃で暮らすなどもったいない。5人集まれば、50万円だ。50万円出せばちょっと郊外にでも出れば、それはお屋敷でも借りられる。それなりに稼げる女性なら、なんらかのキャリアを持っているだろうから、ひとりは文章を書き、ひとりはデザインを担当し、ひとりは編集と厚生、ひとりは営業、ひとりは雑務、、、という具合で連帯家族となれば、なんだか仕事もバージョンアップ間違いない感じだし、もしかしたら出版社だって作れてしまう。連帯して暮らす女性5人いれば、なんだか何だってできるような可能性を感じないだろうか。男5人ではなんだか不安だが、女性5人ならきっとできる。軽井沢の借り別荘などで5人で暮らせば、家賃は10万円、生活費も限りなく安い。出社は新幹線代を会社から出してもらえばいい。そして5人でやがてキャリアを持ち寄ってビジネスを立ち上げることだってできる。連帯家族がいやになったら、もめる必要もない。私しばらくまたひとりでやるよ、、、と云えば、わかった、、またさびしくなったらおいで。で済む。この気楽さ、そして自由さ、そして可能性。これまでの連帯はもっと重たく厳しい不快さがあった。仲間を抜ける、、、何、、、おとしまえだ、、、的な連帯はご免こうむりたい。大体、それではビジネスなどうまくいかない。それは誰か、劣等感の強いボスをみんなでもちあげ、こちらがエネルギーをそれにささげる構造をしているので、その連帯に所属すればするほど、こちらのエネルギーは奪われていく。そんな連帯からは早いところ逃げ出すに限る。社会にはそうした重石があり、新たな連帯家族の本当の意味は、そうした収奪社会から早く抜け出すということなのだ。そのためには、資格も金も何もいらない。むしろ何もないで困っている人の方が有利である。連帯家族。ひとりで暮らすには死に物狂いでも、5人集まれば、きっと天国になる。いやならやめればいいだけの話しなのだから。誰が生きることを難しくした、、、誰が生きることをつまらなくした、、、全部上位者の利益のために私たちの自由を奪っただけではないか。その手にもう乗ってはいけない。私たちは連帯的家族のような心と生活のつながりを持って、新たな気持ちで生きていく時代に入ったのである。