雪の冬
雪はわずかな標高の違いで降ったり雨になったりするが、私のところは標高が200メートルほどあるため下が雨でも雪になるケースが多い。この冬はまさにそれで昨日などは一日中みぞれまじりだった。同じ水分が雪にも雨にも変わる。水、氷、水蒸気と形を変えるわけで、考えてみれば面白い。自分の心もいまは、水か氷か水蒸気か、、、、考えて見ると、はたして何だろう。水というのは、もっとも純粋な物質だという。みそぎや洗礼で水を使うのは、物質に悪い霊をつけて落とす意味があるからだと思う。霊は物質を求め、物質は霊を求めるのだから、もっとも純粋な物質である水はよく霊を集めることになる。汚れた水はだから危険である。そこには色々と捨てられた霊が集まっていることになる。流水がそばにあるのは逆に気持ちがよい。シャワーを浴びるだけでもすっきりする。人間の肉体は物質だから、当然霊を宿す。宿る霊によって人格も正確も顔も態度も変わってくるのだろうか。ひふみ神示によれば人間の肉体には神が宿るようになっているので、悪い霊に憑依されても、本当に深いところまでは乗っ取られない、、、と書いてある。よい霊は微細な波動なので、ドタバタしていない。どこか静かな印象があるらしい。よい霊が宿ると、物静かでやさしい感じが出てくる。物凄く悪い霊の大玉がついて場合もやけにおとなしく、静かに見える。その人を見た印象が、大人しく、物静かな場合は、よい霊か、もしくは親玉の悪霊がついているか、どちらかということになるのだろうか。そわそわしてうるさい印象の人は雑霊がついているので、運は伸びない。しかし心を入れ替えればすぐに本来のその人に戻れるだろう。自分についている霊を見極める開運法があってもよいと思う。なんでこんなことを話すのかというと、机を整理していると岡本三典様からいただいた手紙が何通か出てきたためだ。昨年、お亡くなりになられた。偶然が重なって以前、ご縁ができ、何度かシオン郷に伺ったことがある。私の一二三解釈は、単純で、夫婦神が一二三の重要なカギであるので、岡本天明は下ろし役、そしてご夫婦であった奥様の三典様が筆の解釈役、、、と私は考える。これまでに一二三の色々な解釈を本などでも読んだが、三典さんの解釈ほどしっくりきたものはない。お米が神の愛そのものであるという解釈の原点がある。私もそう思う。それが一番大事だという。一二三は夫婦神であり、天明と三典さんは同格であると思う。二人一役の形を現したのだが、まだ誰もそのことを言ってない気がする。三典さんの解釈はどなたが受け継いだのだろうか。