国民歌謡なしの09年

今年はみんなが口づさめるような流行した歌がなかったらしい。そこそこにはやったり、売れた歌もあるのだろうが、みんなで、「今年はこの歌だよね」というのがない、非常に珍しい年だとニュースが伝えていた。歌がないと人間は元気にならないというのが私の持論だから、これはさえない今年を表した現象と言えるだろう。歌のない年、歌のない時代、歌のない人、、、こうなると人生はどうしても暗くなる。誰でも幸福になりたいと思うし、誰もが幸福を求めてはいるが、お金を得ても、地位を得ても、幸福になるとは限らない。歌がないからである。歌いたい歌があるということは、すなわち生きていることへの思い入れがあるということなのだ。しかし好きな歌をただ口先で歌えばいいというものでもない。それでは思い入れが少ない。祈り、、、という言葉を、意乗り、、、という漢字で表現してもいい、という話しを聞いたことがある。意が乗る、、意が乗らない祈りなど意味がない、ということだろう。歌も同じ。私は歌が好きだ。好きな歌を歌うとき、どうしても普通には歌えない。思い入れを表すようにしか歌えないし、歌いたくもない。要するに下手だからそうなるのだが、歌いかたにはどうしても個人差が出てくる。ひとりよがりの思い入れを込めて歌われるのも、カラオケなどでは困りものだが、それで笑いや涙を取る人と、じゃけんに扱われる人の違いはどこにあるのだろう。いくら意がのっても、深刻すぎたらこれも嫌われる。昔、チアキナオミという歌のうまい歌手がいたが、新曲をもらってヒットさせたのち、「やっと感情を抑えて歌えるようになりました」といったのを覚えている。感情を抑えて歌っても、抑えきれないものがきっと伝わっていくのだろう。大声で泣くよりも、忍び泣きに真実を感じるのが人間の感性だろうから、歌も同様に、抑えた感情がこらえきれずに人に伝わったとき、共有できる世界が現れるのかもしれない。流行った歌がない年とは、共有できる感情がなかった年とも言える。しかしこれだけの波乱と変化があったのに、共有できる感情がないはずはない。これはひとえに文化人の責任でもある。マスコミの責任も重い。分裂を助長はしても共有する感情を探れない文化や芸術やマスコミなどあまり意味がない。不況や暗い時代にはタンゴが流行ると聞いたことがある。今年、とくにタンゴが流行ったかどうかは知らないが、本場アルゼンチンのタンゴの大会で、日本人カップルが優勝した。ラテン系の国以外の人が優勝したのは初めてとか。不況とタンゴの関係が多少はまだ残っていたか。来年は何か流行る歌があってほしいと思う。それによって、日本人がどこに向かって歩き出そうとしているのか、きっとわかることだろう。