平安の憂鬱

雅な平安のイメージを持ちやすいが、無常感も深い時代だった。平安に限らず、日本の文化の歴史の中では、常に無常感が漂う。これだけ陽が短くなり、木の葉が色づき、落葉が舞うと、現代でも無常感から逃れられなくなる。秋の深まりから初冬にかけて、気分が落ち込む人は多い。現代では人間は通常は明るく元気である、、、というような文明のスタイルがあるので、こうした無常感や憂鬱さはマイナーなものとしてみられてしまう。晩秋の寂しさを深く感じる女生徒や男子学生は必ずいるが、それを共有する場も人もない、、、ましては企業内ではそういうことを言えば、うつ病になったのか、、または弱い人間ではないか、、、などの反応になるかもしれない。それひとつとっても気持ち悪い時代である。うすっぺらな人間がコマーシャルリズムに乗っておどけている。憂鬱と悲しみは潜在化し、個性をゆがめていくだろう。仕事関係の知人を車に乗せた時、私がよく聞いているショパンが自然にかかった。美しい練習曲なのだが、それを聞いて知人は、なんだか暗いなあ、、、と言った。ショパンを聞いて暗いと言われたのには驚いた。なんだか悔しくなって、「あなた、女ができると甘えてばかりでしょ」と言ってやったら、「ははは、何でわかるんですか」と。見せかけだけの明るさでは、女との共有の関係はつくれまい、夜の闇の深さとは対峙できまい。ビールを飲んで仲間と騒いでわけがわからぬうちに眠る、、、それが悪いわけではないが、要するに浅くなる。憂鬱や無常から逃げると人間は浅くなる。そして臆病になる。電気がなかったころのこの季節を、昔の人はどういう思いで生きていたのだろう。鬱病の中には今はうしなった昔の無常感や自然観へのパイプがつながっていると思う。それを病気というのは簡単だが、はたして本当にそうだろうか。鬱を体験してない人もやがては老い、病を患い、死を思う時が来る。鬱や無常を受け止めずに来た人が、それを受け入れることは難しい。一日の中に太陽が生まれ、太陽が死んでいくこと、、、一年のうちに緑が芽生え、すべての植物が静まり返っていくこと、、、をわが身に置き換えて悲しみ、生をいたわることを忘れた現代人は、どうやって死んでいけるのだろう。テレビをつければ、見せかけの明るさが横行している。文明はその基本においてやはり臆病なのだと思う。終末の運命を避け、そこに至る思いを消し去ろうとするが、それらはかえって潜在化し、現代人の不安を醸成していく。紫式部も寂連法師も蝉丸もショパンも、憂鬱と無常を抱くことで文化の火をわが身に灯した。