友よ、あの闇の向こうには、
昨日の紀尾井町小ホールでの公演は、無事に終えることができました。このhpからも多くのお客様がお見えになられたようで、心から感謝いたします。ありがとうございました。しかし、私はというと、下働きに徹しておりました。そのため、お出迎え、そしてお帰りの際にも、受付にいましたので、多くの方にごあいさつができたことは本当によかったです。しかし出演はかなわず、期待していた方がいらしたとしたら、大変申し訳ありませんでした。しかし公演を客席から見たのは初めてで、いろいろと気づくこも多かった。その意味ではよかったかもしれません。まだまだ、、、という点が多かったとは思うものの、第一部の、「からころも」のスタイル。語りと披講の流れは、昨年もそうでしたが、私たちが生み出したスタイルですが、これはよかったと思いました。語りと披講のスタイルで物語を進めていくと、これは能にも劣らない幽玄の世界や魂の深い世界を表現する可能性に満ちています。このことが確認できただけでも個人的には非常によかったです。私が生きているときではまず無理でしょうが、あと、50年か100年後には、語りと披講のスタイルでの芸術表現は、間違いなく、世界に認められるようになっていると思います。日本の文化が今後世界的に高評価を得るようになっていくのは、これは自然な流れですが、外国人は、そうしたものの本質的な流れや形を追いかけることで、それらの芸術が位置する立地点を探ろうとする特徴があります。日本文化が高評価を得るということは、それらの位置づけが同時に求められることになるため、日本文化の根底に位置する和歌の披講の存在は、いずれ大きくクローズアップされる位置にあります。これはうぬぼれでもなんでもなく、必然性なのですが、この部分を確信的に感じ、学び、その表現法をとして編み出したものが、語りと披講というスタイルで、これは冷泉家でも宮中披講でも行いません。民間だからこその取り組みだったのですが、私はこの可能性を昨晩は信念に変えることができました。その点が本当にうれしいです。現時点では、披講などは、雅楽のおまけのような存在で、華道の家元から見ても、茶道の家元から見ても、香道でも、どこからも、披講ってなんですか、、、というぐらいの認識しかないと思うのですが、何が本質か、、、という観点にたって日本文化を探っていくまじめな試みが必ず海外で行われるようになるでしょう。そのさいに、突然、華道や茶道とは次元の異なる重要性として認識されるようになります。ただし、それはまだまだ先のことではあるとは思いますが、必ずそうなります。それを見つけ出した喜び、そこにかかわった喜び、、、枝葉ではなく本質にかかわる喜びは、評価されようがされまいが、それにかかわるものに喜びを与えてくれる。平たく言えば、歌。誰もが自分の声で自分の歌を歌う、、これが生きることの原点であるということから、次の喜びの時代が開かれるとまで、私は個人的に勝手に思っているわけです。
前置きが長くなりましたが、昨晩はたくさんの方においでいただきありがとうございました。お帰りの際の皆様のお顔を私はずっとチェックさせていただいておりました。そして、本当にすべての方が、すっきりしたお顔となり、明るく、楽しそうに帰られたのを見て、うれしく思いました。
帰りに新宿駅に行ったとき、なぜか、大昔に、ここで学生たちやサラリーマンが肩を組みながら歌っていた、、、友よ、あの闇の向こうには、、、友よ、、輝く明日がある、、、友よ、、、と、わかるかたはかなりの年配の方だとは思いますが、なんで、これまでしょっちゅう新宿を通りながら一度も思い出すことなどなかったのに、昨晩は懐かしく思い出した。そう、全共闘世代の若者が、新宿駅でいつも歌い出し、最後には警察に排除されていくのですが、最初は単なる歌の会場だった。結局あの当時の若者は、、、自分も同年代であるわけですが、騒ぐだけ騒いで世の中をお騒がせしただけという印象もありますが、でも、あの時危惧していた未来は、本当に現実になってしまった。このままでは、一般民衆の生活は苦しくなり、生きること自体が息苦しい、つまらなすぎる管理社会になっていく、、、とそう思って騒いでいた、当時の若者の危惧は本当にそのとおりになってしまった。新宿駅でまた見知らぬ学生とOLとサラリーマンがともに肩を抱き合って歌うことなどもうないのだろうが、もしあったとしても、その日のうちに警察官に排除されてしまうだろう。権力というもののひがみっぽさと臆病さんはさらに磨きがかかってきているね。世の中をつまらなくした罪というのは、実は本当は一番おおきいのではないだろうか。つまらなくしないと、民衆を単なる働きマシーンにできないし、不安を与えて遊びや楽しみよりも仕事、、、ということにしないと、上は儲からない。そして絞られ、もう一滴のうるおいも残されていないところまで私たちは追い詰められてしまっている。