原稿締切り

日ごろの横着もあるのかもしれないが、月末、月始めもあり、原稿の締め切りに追われている。もう少し時間があれば内容ももっと検討できるだろうが、相変わらずやっつけである。小説などはじっくりとしか書けない仕事だと思うので、やはりいつかは書いてみたい。売れる小説などは無理だろうが、自分が納得できるものが書けるだけでよい。それならば、時間を作ってどうにかなるかもしれない。完成したら、内緒で何人かに見せるだけ、、、なんて、なんと贅沢な趣味だろうと思う。一日400字詰め原稿一枚書くだけでも、年に200日書けば、短編にはなる。二年書き続ければ立派な小説になるのだから、誰だってやろうと思えばできないことはない。誰もみな物語の世界を生きている。これからの時代、絵に描いたようなものは必要がない。小さな自分の真実の方が格段の価値がある。最近社会的に偉い人にあうたびに何となく感じることは、こう言っては失礼にあたるかもしれないが、そういうことがまったく関係なくなるな、、、という直感である。社会的な上下、上司やお得意、また親会社、、、そういう上の立場の人も下の立場の人も、まったくこれまでとは違った感覚が漂う。急に権力を失った自民党代議士のように、どの会社の上の人も、同様の虚脱感を受けているような、、、そんな感じ。多くの会社は今、何をしたらいいのか、わかってないのだと思う。また、何かやったとしても、その効果がどう出るか、頭がよい人ほどどう出るかわからないと気づいている。そう、行動のほとんどが徒労に終えようとしている直観がこれまでの縦型の世界に忍び寄っている。自分の立場や権力をもって今なを威張って縄張りを主張しているのは、はっきり言ってバカばかりである。マスコミはとくにそうだが、官僚でも頭の良い人は、やっぱり違うものを感じ取っている。非常に少ないが。
 ところで、民主党は原発を推し進めるのだろうか。これにはがっかりである。福島瑞穂なんかは怒っているかもしれない。私は信頼できるいろいろな人に原発の安全性を訪ねたことがあるが、日本の原発は安全だという話しが多かった。偏見のない人の意見だが、重大長から軽薄単の流れの中にあって、やっぱり原発には抵抗がある。コスト的にも本当は見合わないはずで、何より、いざ何かあったときには誰が責任をとるのか。責任取れない種類のものである。実際、チェルノブイリ事故もスリーマイルズ事故も起きている。原発の問題というのは、最終的にシステムの問題よりも、それを扱う人間意識の問題だから問題なのだ。それゆえ危険と言える。事故や失敗をひた隠しするような体質の人間が扱ってはいけないものが原発であり、とくに中国などでは、人災が起こりやすい体質と背景がある。鳩山は原発に関してはもう少し考えるべきだ。株式も天井感が出ており、またしても10月は波乱の月のスタートとなるだろう。どこの国にも、もう株式を買い上げていく資金的な余裕がない。ふたを開けたらびっくりが開く、、、そんな金融の状況のはずだ。