虫を無視すると、、

きょうは一日畑仕事。冬野菜の作付けをした。横着になって、大根と小松菜のみ。例年は9月の23日ごろにいつも畑作業をするけど、今年は寒いのでやや早めに作業した。しかしそれにしても寒かったです。ちゃんと育つのかしら。私の畑は一切、農薬を使ったことがないので、耕運機をかけると凄い数のみみずが出てくる。しかし耕運機の刃にやられて、苦しそうにもがいている。毎回、どうしたものか、、、と思っているけど、今回はなんだか確信した。こうした農業はおかしいと。土をよくすくために丹念に耕運機をかけると、最初はたくさん出てきたみみずが、段々とすくなくなり、耕運機をかけ終えるころには、千切られた残骸が土に残るだけで、死の静寂が畑の土に訪れる。それで完成、、というのだから、何かがおかいい。無視を殺しておいて、はい、できました、、、と言っても、、、。収穫するためにそこの部分だけを耕し、そこに住む虫を殺し、種をまいて作物を作る。なんだか、収穫するための計画的行為がいつもひっかかっていた。農業というと、現代では自然でよいイメージを感じる人が多いと思うが、収穫目標の農業には、なんとなく人間のエゴが感じられる。実際、農業をおこなうと、そこには領地や収穫物を守るための軍隊が派生したのが歴史の現実だった。農業と戦争は結構深い関係があるのだ。本日、耕作しながら、たくさんのみみずを殺して農業に疑問を抱いた私。不耕起栽培があるらしい。どうやらそっちが本当ではないだろうかと思う。単位あたりの収穫量、、、という発想になると、農業は戦争と同じ構造になる。新しい農業のイメージを作り、実験的にはじめて見るといいと思うが。たとえば、採取農なんか面白いと思う。わかりやすく果樹で言うと、果樹畑というものはないかわりに、どこにも果樹がある。たくさんの果樹があり、欲しいひとは好き勝手に採取して食べてよい。同様にして、ナスもキュウリもトマトも小松菜も、、、もちろんルールは必要、誰もが採取農業がうまく機能するために、一日に数分は必ず働く、、、というようなルール。食糧問題も一挙に解決したりして。一か所に集め、そこで能率よく作物を育て、収奪しようとするから、農業と計算と軍隊が一体化してしまう。倉に取り入れられるとどうしても守りが欲しくなるのだろう。しかし、銀杏などは、大好きな人は朝早く銀杏並木などに行けば、拾うことができる。銀杏がもう少し多ければ、誰でも銀杏が食べられる。そんな感じであらゆる野菜を採取する方法などあったら面白いのにと思う。採取だから、最大効率でつくる必要もないし、不耕起でよくなる。そうなるともしかして、かえってよい味の野菜ができるかもしれない。大根の種をかたい土にこぼしたことがあるが、そこで育った大根は畑のものよりずっと見事だった。不耕起でも野菜は条件がそろえばできるのだ。なにより、街中に、どこにもかしこにも、野菜が実り、果樹にはおいしい果物があふれる光景、、、これは素晴らしいではないか。そういうところで誰もが暮らし、誰もがスーパーに行かないでも食べていける、、、それが不耕起だとできるかもしれない。収奪農業は虫を殺し、ミミズを殺し、カエルを傷つけ、、、人間の利益のためだけに存在しているので、どうしても貧しくなるという構造を持っている。新しい農業、人間を、動物を、虫を幸せにする農業がきっとあると思う。誰か、考えて実践してみてください。結構大きな問題だと思います。写真はミミズが死んでしまった静かになった畑。すでに大根の種は植えてあります。