幸福は安いもの
長かった自民党政権のおかげで私たちはずいぶんと間違った常識を植え付けられた。
そのひとつ。お金はあればあるだけいい。というのは、間違いだと思う。なさすぎるのは確かに困るが、ある一定以上になるとお金が人を幸福にするよりも、不幸にすることの方が多い。人が幸福になるのは意外とお金はかからない。ありすぎると逆になるケースが多くなる。
億ション、外車、外食グルメ、子供はお受験コース、ブランド品、、、、こんな生活がリッチと言われ、うらやましがられてきたが、こんなんで本当に幸福が作れるか私は疑問だ。どこにも精神性がない。どこにも芸術性を感じない。そんな金持ちになんてなりたくない。
自民党的な価値観に従うと、そういう人生目標しか見えなくなる。勝ち組というが、本当は負け組の間違いだったということがこれからわかってくる。人間の幸福というものをあまりに短絡的に考えすぎている。自民党的というか、白人的な幸福観と、日本人が普通に感じる幸福観には違いがある。
日常的な心のふれあい、、豊かな自然の息吹きとのふれあい、、、質素だが清潔、、、、自然な助け合いと信頼感、、、、代々受け継がれていくもの、、、そんな空気の中にいることがうれしいし、自然な感じを受けるのが日本人の特性と言ってもいいだろう。こうした安心感があると、かえって新しいものにも怖がらずに手を出す、工夫もできるし、受け入れられる、、、となる。
こうした日本人の特性からくる幸福観の達成には、そんなにお金もかからないし、無理する必要もない。
自民党的、白人的な価値感は、日本が戦争に負けたコンプレックスと裏返しにあったものであることがわかる。それは先の大戦というよりも、もっと古く、とくに明治から始まっているかもしれない。本当はもっとさらに先に戻るのだろうが、目に余る、、、という意味では明治だろう。
民衆を苦しめた冷たい官僚的なものと、一般の性質であった人の良い日本人、情が豊な日本人の、おおまかに二方向があった。これは日本に限らず、どこの国でも同様だと思う。そしてどの国でも、大体は、冷たい官僚的なるものが支配した。日本の場合は海外程ではないものの、やはり上にはそういうタイプの者が立った。
そして通貨と情報の独占によって長い長い支配構造を築いて今に至っている。
そうした勢力は人々の努力によって得た成果を冷たく奪い取ることで大きく発展してきたが、物事にはきりがある。トランプゲームも一人勝ちしてしまうと、もうゲーム自体が続けられない。今は同様の時代である。すべての人の負けが確定し、ごく一部のところにあらゆる富が蓄積された。通常の金持ちはまだいるだろうが、そんなのは、カスのような金持ちで、上から見たらどうってこともない。貧乏人と同じだろう。そんなのはほうっておいて、さらに上の金持ち連中もほとんどやられ、上の上のみが残った状態。これからの歴史は、国家をつぶし、中途半半端な企業を淘汰し、民衆を貧乏に貼り付けたままとし、かつかつで食べていける程度にし、さて、それからどうしようか、、、と思案しているところ。株などは上昇しているが、一度大きく壊れてしまったものは、最後の最後まで行き着くのが相場である。これから何度か崩れることで、上の層を減らしていき、最後は上の上しか残らないので、経済システム自体が終焉する。一人勝ちした者があらゆる資源を得、あらゆる価値あるものを独占。そのためにペーパーマネーを使うのだからこれはすごい話だ。まったく通貨には本質的な価値はないのに、上の金持ちがすべてデリバティブ相場でやられてしまっており、現金がない状況。だからデフレだが、その穴埋めのために政府は金をすり続けるも、巨大な穴埋めなのでいくら刷ってもデフレが続く。その間に、売りで儲けた実弾を使って、あらゆる価値あるものを独占的に買い取っていく。こうして上の金持ちどころか国家をもつぶす。こういうと、まるで裏情報のような危ないインチキ話しに聞こえると思うけど、いま、アメリカなどがやっていることは、あきらかに国つぶし。国をつぶすために政策が打たれている。なぜ自分の国をつぶす必要があるのか、、、という疑問は当然かもしれないが、自分の国ではなく、自分が儲けるために作ったのが近代国家なのだから、まったくおかしな話しではない。こうしたことを陰謀というとおかしな話しと捉えられるけど、陰謀ではなく、本気で儲けよう、最高に儲けよう、、と冷たい知性が行き着いたことが起きているというだけなのだから、陰謀でもなんでもない事実。人も国も相場に誘い込まれて負けたという話しであり、これは事実なんです。デリバティブという掛け金が何百倍の勝負に誘いこまれて負けたのだから、そうなったということ。おれはそんなことはやってない、、、と言い張る人の気持ちはわかるけど、あなたが預けた銀行や証券会社や保険会社や郵便貯金や、年金基金などが、、、莫大な穴を開けてしまっていると考えたらわかるはず。だからどこにも金がないので、政府が刷りまくっているということ。それでもデフレというのは、もう何年も先のお金までデリバティブで巨大化させてダメになったのだから、もう人類は何十年もただ働きしなくてはならない赤を出している状態。だから、最後の勝負に負けたのであり、最後の勝負がなされてしまったのだ。しかし相場には大多数の負けた人がいる一方で、その分のデリバティブ分の負け分、これから人類が何十年もただ働きして返済していかなければ本来いけないはずの金を、ごくごく一部の懐にすべてねじ込まれている。そうでなければ、相場は成立しない。50億人が負けて、数百人は勝っている。50億人の何十年分の働きに相当する金が数百人の懐にねじ込まれている。だから、すべて負けたのです。個人も国も。
では、本当の負けかどうかが、これからわかってくる。海外は大体は本当の負け。日本の場合は唯一の例外で、デリバティブで負けた分よりも、まだ現金の方がわずかでも残っているという貴重な国になっている。自民党的なものは、こうした貴重な国民財産をデリバティブ最大の負け組国家のアメリカに貢ぱなしであった。なので、本当に郵貯に幾ら残っているか、また銀行に、保険会社に幾ら残っているか、は不明。おそらく半分以上の金はすでになくなっていると勝手に思っているが、それでもわずかではあるものの、未来のために使える金は、今は日本国民にしかない。その大勝している数百人だか何人をのぞいては。そこで自民を落とし、新たに民主が、国民の政治を目指すという触れ込みで登場。要するに、この奇跡として残った、唯一の日本人の金を、そう使って、どういう未来を築いていけるかが、まさに人類の方向を決める、、、と言ってもよい。すごい実験が始まるのだ。
その際にどうしてもわかってなくてはいけないのは、幸福になるには、そんなにはお金がかからない、ということ。そのビジョンを民主党が国民に見せることができるかどうか、その可能性を育てることができるかどうか。
一見、景気が復興している状況もあるが、これは次に来る第二波、第三波にやれてしまう。失業率が今後異様な伸び方をしていくはずで、流れは恐慌である。未来の金を先取りして経済を動かせたうちは、欲望に火をつければいくらでも経済を伸ばせたが、すでに世界はデリバティブの失敗により、数十年分の未来の金を使いきってしまっているので、これはできない。金のかからない幸福を作っていくしかない。それにも多少のモデルに必要な金がかかるのだが、それだけは日本にある。民主党の責任は重いぞ。あなたも世界を変えられるいまチャンスになっている。どうやって変えるかは、簡単。金をつかわなくても、こんなに素晴らしい生活ができる、金がなくても、こんなにうれしい、こんなに素晴らしい、、というものを、精神論ではなく、本当に実際に作ることなのだ。それができれば世界が変わる。実際、アリからトリまで、すべての人間以外の生き物は金なしで暮らしている。赤ん坊はたまに見せる笑顔一つで食べていられる。私たちにも必ずあるはずだ。簡単なところでは、種をベランダや窓際に巻いて、自主農園を作る、、、外食を控えて弁当にし、それも当番制にしてシェアしあう、、、など、考えればアイデアはいろいろ出てくる。そして貧乏が楽しい、、、ということに気づいてくると、金持ちの意味がなくなってくる。人類最後の戦いは、金なくても幸福な暮らしがおくれることの証明とその実践にある。エネルギーがただになるとあっという間にそうなるので、かなり現実的な話しなのだ。
私は昔から、質素な暮らしにあこがれていた。求めた家は、西行庵のような家。小さな土間、三畳ほどの板間に小さな囲炉裏。100坪程度の畑に、近くに湧水。まさに西行庵がそうだったが。これを作ろうとして、何度も挑んだ。そのたびに、そうだやっぱりファックスがいるな、、、そうなると机も必要か、、、お客も来ると風呂も、、、ということで、結局は普通の家しか作れない。自分の貧しさなのである。タオルひとつで私のお爺さんはよく熱海に出かけたというが、タオルひとつで出かけるリッチさは私にはまだできない。
若い人なら、土間に囲炉裏と板間、、小さな水田に畑。近くに小川か湧水があるところで、かわいい恋人がいる、、、毎晩、似たような暮らしの仲間が集まって火を起こし、酒を飲み、歌い、踊る、、、仲間で芸術や文化を起こして人にきてもらえば、十分暮して行ける。それは億ションに暮らして、子供をお受験コースに入れるよりも、ずっと楽しいのではないだろうか。
民主党のやるべきことは、わかりやすく言えば、金をつかわなくても楽しく生きていけるという暮らしを、作れるかどうかにかかっている。それは小さな日本国家だけの問題にあらず、世界の人々への本当の希望となる。どうか志を高く持ち、人類へのプレゼントをしてもらいたい。金がすべてという自民党的、これまでの白人的な価値感は人間幸福の擬態であって、はっきりと目を覚ますときに至った。うれしい限りである。